武将名鑑【信長の野望 新生】
大野治房(おおのはるふさ)
大野治房(おおのはるふさ)
大野治房 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
62 (701 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
65 (572 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
50 (1482 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
47 (1454 位) | ||||
合計 | 224 (951 位)2201人中 |
大野治房 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 正治 | ||||
仮名・通称 | 主馬 主馬首 主馬正 | ||||
父 | 大野定長 | ||||
母 | 大蔵卿局 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1572年 | 豊臣家臣。治長の弟。大坂の陣の際は、主戦派の中心人物の一人となる。大坂落城後、国松丸(主君・秀頼の子)を擁して脱出するが、捕らわれて斬首された。 | |||||||||
死亡年 | 1615年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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堅陣 | 合戦で積極的に要所・退き口を防衛 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 |
大野治房が登場する合戦
-
本町橋の戦い [大坂冬の陣]
1614年12月17日
大阪府大阪市中央区本町橋
LOSE
徳川家康は真田丸での敗北の後、攻撃を自重し包囲を徐々にせばめていく方針にした。
豊臣方の砦が次々と占領され戦線が膠着していくなか、大野治房の配下に属していた塙団右衛門や御宿政友らの間で夜襲の相談が行われた。
大坂城内では和睦案に傾いていたため決行が急がれ夜襲の決行は12月17日に決まった。17日の午前2時頃、夜襲の人数は、大野治房、塙団右衛門、長岡是季、御宿政友の組下など侍120名余でその中には、神子田理右衛門という勇士の姿もあり、ほかにも上条又八と田積市郎兵衛が配下の足軽を城内に残して単独で駆けつけた。
このとき、団右衛門は夜襲参加者に槍ではなく刀を持つように指示し、また、肩には相印の白布をつけた。
夜襲を行うにあたり是季は池田忠雄の救援に備えて見張りをつけ、治房と政友は追尾の敵に備えて治房の足軽頭である三宅久太夫、安井少右衛門らが指揮する鉄砲隊100名余を橋上に置き、櫓には幸田弥右衛門らを守備につかせていた。午前2時30分頃、塙配下、大野配下、長岡配下の順に出撃。
功を焦り抜け駆けした二宮長範を先頭に1人また1人と敵に悟られぬよう腰を低くして橋を渡り蜂須賀至鎮の重臣・中村右近重勝の陣を目指して忍び寄った。
本町橋のみが残り、それ以外の橋が大坂方の手によって焼かれていたが、中村隊は夜襲など考えておらず、兵士たちは眠りにつき、不寝番の兵も皆揃って餅などを食べながら雑談しあい、守将の中村重勝も普段はつねに具足を脱がない勇士として評判であったがこの日は具足を身につけておらず油断していた。
大坂方による斬り込みが開始されると中村隊の者たちは不意をつかれ次々と討たれ、重勝も兜をつける暇もなく槍を持って飛び出し配下の兵を励ましながら応戦したが6名程の者に囲まれ討ち取られた。短い時間であったがこの夜襲により、中村隊は、重勝と尾関重武をはじめ、30名余が戦死、50名余が負傷した(『武辺咄聞書』によれば中村右近のほかに武士214名、雑兵数十名が戦死、『当代記』によれば死傷者は100名に及ぶとされている)。
いっぽうで大坂方は10名余が戦死した(『山口休庵咄』によれば大坂方の犠牲者は1名とされている)。
豊臣方は蜂須賀本営から援軍が来ると撤退し、中村隊の旗や指物を拾い上げ、堂々と城内に引き揚げていった。
援軍に駆けつけた蜂須賀勢はこれを追ったが、橋上で治房配下の鉄砲隊が控えていたので撤退を余儀なくされた。団右衛門ははじめ、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、引き揚げに際して「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせその名を広く知らしめた。
この戦いが契機になったわけではないが、12月19日、 家康は豊臣方と和睦した。
これにより、大坂冬の陣は終わったのである。 -
郡山城の戦い [大坂夏の陣]
1615年4月27日
奈良県大和郡山市城内町
大和郡山城
大坂に向けて進軍する徳川家康の動きをみて、豊臣方の大野治長の弟・大野治房が後藤又兵衛ら2,000余の兵を率いて暗峠を越えて大和に侵入し、大和郡山城を攻撃します。
この郡山城主は以前筒井順慶の居城であった城で、このときは徳川方の順慶の養子である筒井定慶が1,000余の兵で守っていました。
しかし豊臣方による突然の夜襲に驚き、城兵の逃亡が相継ぐ。抵抗の不利を悟った定慶は、城を捨てて落ちのびていきます。
ほどなく家康の家臣・水野勝成の軍勢が大和に入ったため、治房も郡山城を放棄して大坂城に撤収している。
この合戦が戦端となり大坂夏の陣が始まりました。
-
岡山口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
徳川秀忠 (36)前田利常 (22)本多康俊 (46)本多康紀 (36)片桐且元 (59)井伊直孝 (25)藤堂高虎 (59)細川忠興 (52)黒田長政 (47)加藤嘉明 (52)立花宗茂 (48)土井利勝 (42)本多正信 (77)三枝昌貞 (78)本多忠純 (29)WIN
大野治房 (43)LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。 -
天王寺口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯
徳川家康 (73)本多忠朝 (33)秋田実季 (39)浅野長重 (27)松下重綱
真田信吉 (20)六郷政乗 (48)植村泰勝
榊原康勝 (25)小笠原秀政 (46)仙石忠政 (37)諏訪忠恒 (20)保科正光 (54)丹羽長重 (44)酒井家次 (51)松平康長 (53)松平忠良 (33)松平成重
松平信吉
内藤忠興 (23)水谷勝隆 (18)稲垣重綱 (32)六郷政乗 (48)徳川義直 (14)徳川頼宣 (13)小笠原忠脩
丹羽秀重
諏訪忠澄
松平忠直 (20)水野勝成 (51)浅野長晟 (29)西尾宗次
本多忠純 (29)WIN
大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。
大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。
二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光、丹羽長重ら計5,400。
三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、水谷勝隆、稲垣重綱、六郷政乗ら計5,300。
その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。
これに対し豊臣方は、真田信繁・大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。
正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。
本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。
本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永や大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。
別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。
勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
翌5月8日、豊足秀頼は毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
これを元和偃武という。偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。
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