大坂冬の陣
大坂冬の陣
1614年11月
真田幸村と徳川家康
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木津川口砦の戦い(きづがわぐちとりでのたたかい)
1614年11月19日
大阪府大阪市西成区
木津川口砦の戦いは大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦いである。
木津川と尻無川の合流点に豊臣方が築いた木津川口砦があった。
この砦は豊臣方が大坂城外の要所に築いた出城のひとつで、明石全登が兵800で守備していた。
木津川口の砦の正確な位置はわからないが、現在の道頓堀川口辺とみられる。
徳川方の偵察隊の一人である森村重は「飯を炊く際に出る煙が少ないので、兵数が少ないと思われます」と蜂須賀至鎮に報告したため、砦への攻撃が決定。
11月19日、徳川方は蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄らが3000余の兵を率いて、豊臣方の木津川口砦を攻撃する。
水陸の二手に分かれて進み、木津川から迫った蜂須賀水軍の40艘の軍船が水上から砦を火攻めにし、陸路から近づいた軍勢も一斉に攻撃をしかけ、砦はその日のうちに徳川軍方の手に落ちたのであった。
不幸にも守将の明石全登は軍議のために大坂城へ赴いて留守であり、一族の明石全延が守っていたため指揮が上手くいかず、蜂須賀軍の挟撃で大混乱に陥り、大した抵抗も出来ないまま博労淵に撤退してしまう。
伝法川口では、幕府船奉行・向井忠勝および徳川義直、池田利隆らの軍船50余艘が、往来する船舶の検問にあたっていたが、新家に敵船があるのを見つけたため、徳川義直、池田利隆らの兵船とともに、敵船を追いこの地も占領した。
豊臣方は木津川口の砦と新家の輸送基地を失ったことにより、大坂城と大坂湾を結ぶ水上補給路が遮断されたのである。
今福・鴫野の戦い(いまふく・しぎののたたかい)
1614年11月26日
大阪府大阪市城東区今福・鴨野
大坂城北東2kmほどの位置に、大和川(寝屋川)の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。
豊臣方は今福村に3カ所の堀切と4重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞にそれぞれ兵300で守備させていた。
鴫野砦では井上五郎右衛門・小早川左兵衛・竹田兵庫ら2,000の兵が守りを固めていた。
徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両砦の奪取を命じます。
今福砦へは佐竹義宣が兵1,500で、鴫野砦には上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重が攻めいります。
11月26日夜明け、戦いは佐竹隊による今福砦への急襲から始まった。佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第4柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。
豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。
その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じた。
大坂城から後藤又兵衛隊兵3,000が駆けつけ木村重成を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。
渋江政光は第1柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。
鴫野砦では、砦の守備兵もよく守り、とくに秀頼の武術師範をも務めたともいう穴沢盛秀は大長刀を水車のように振り回して多くの敵をなぎ倒した。
そこへ城中から繰り出した青木一重や渡辺内蔵助らの率いる新手の兵が駆けつけてきたため、上杉隊も苦戦を強いられることとなった。
上杉勢の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。
上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ親憲が大声で左右にどくよう指示し、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。
上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加え、そこへ安田能元隊が槍を入れたため、徳川軍は苦戦しながらも両砦を陥落させ豊臣軍は撤退した。
この戦いは大坂冬の陣最大の激戦とも言われ、双方ともに多数の死傷者を出した。大坂方の後藤又兵衛は退却の際に被弾して血まみれの姿になって帰城したといい、徳川勢ではとくに佐竹隊の損耗が激しく、翌日には佐竹隊に代えて本多忠朝以下、浅野長重や真田信吉・信政兄弟、仙石忠政・秋田実季らに今福砦の守備が命じられたという。
博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)
1614年11月29日
大阪府大阪市西区
豊臣方は、木津川口砦とともに、木津川沿岸の守備のため博労淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に砦を築き、薄田兼相が守将として兵700で守備しており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。
この博労淵砦は、水路を扼する要地にあり、木津川口砦とともに木津浦の出口を守っていた砦である。
11月29日、徳川軍の蜂須賀至鎮、池田忠雄、石川忠総らが博労淵の砦を攻め、これを奪取した。
寄せ手の徳川軍は、石川忠総の兵が5隻の船で伝法口から進み、蜂須賀至鎮の兵は水陸の2隊に分かれて進み、数十隻の舟に分乗して木津口から迫った一隊の到着とともに、一斉に砦内に突入したのである。
守将の薄田兼相は前夜から神崎の遊女屋に泊まり込んで不在だったため、砦は守将が不在の間にあっさり陥落した。
遊女と戯れている間に砦を徳川方に陥落されたため、薄田兼相は味方から「橙武者」と軽蔑されることになる。
その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というもの。つまり、「橙は酸味が強くて、正月飾りにしか使えず見かけ倒し」なので体格の良い薄田兼相も見かけ倒しだという意味になる。
この砦の陥落により、豊臣方は、海上からの補給路を断たれてしまったのである。
野田・福島砦の戦い(のだふくしまとりでのたたかい)
1614年11月29日
大阪府大阪市福島区野田一帯
豊臣方は、天満川と木津川の合流点付近に水軍の主力を停泊させ、そこに面した野田・福島に砦を築いていた。
この砦は、元亀元年(1570)の野田・福島砦の戦いで、三好三人衆が立て籠もって織田信長を迎え撃ったところである。
これらを守備する目的で、下福島の五分一に三重の柵と櫓を造り、大野治胤指揮の兵800を置いていた。
さらに上福島にも砦を設け、宮島兼与指揮の兵2,500で守備していた。
幕府軍の九鬼守隆、小浜光隆、千賀信親、向井忠勝らは11月19日から11月26日にかけて、水軍を率いて何度かこの流域に侵入し、小競り合いが発生していた。
そして博労淵砦の戦いが行われていた11月29日、九鬼、向井、千賀勢は五分一を急襲した。
大雨の中多勢の襲撃に守備兵は怖じ気づいて両砦を捨てて天満方面へ敗走した。
真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)
1614年12月4日
大阪府大阪市天王寺区真田山
LOSE
豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などの河川堀の役目をし守られていたが、地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
そのため豊臣方は、手薄である南面を防御するため、惣構の外に出丸を築いていた。
真田信繁(幸村)によって築かれたので、この出丸を俗に真田丸という。
豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、徳川幕府軍は大坂城を包囲した。
真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。
12月2日、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。
真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。
12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚したため、南条は城内で切腹させられた。
しかし豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。
12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。
前田勢の先鋒・本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。
夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。
前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。
真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。
前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。
前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。
豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。
これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。
退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
この戦いで徳川方は数千人が討ち取られたという。
本町橋の戦い(ほんまちばしのたたかい)
1614年12月17日
大阪府大阪市中央区本町橋
LOSE
徳川家康は真田丸での敗北の後、攻撃を自重し包囲を徐々にせばめていく方針にした。
豊臣方の砦が次々と占領され戦線が膠着していくなか、大野治房の配下に属していた塙団右衛門や御宿政友らの間で夜襲の相談が行われた。
大坂城内では和睦案に傾いていたため決行が急がれ夜襲の決行は12月17日に決まった。
17日の午前2時頃、夜襲の人数は、大野治房、塙団右衛門、長岡是季、御宿政友の組下など侍120名余でその中には、神子田理右衛門という勇士の姿もあり、ほかにも上条又八と田積市郎兵衛が配下の足軽を城内に残して単独で駆けつけた。
このとき、団右衛門は夜襲参加者に槍ではなく刀を持つように指示し、また、肩には相印の白布をつけた。
夜襲を行うにあたり是季は池田忠雄の救援に備えて見張りをつけ、治房と政友は追尾の敵に備えて治房の足軽頭である三宅久太夫、安井少右衛門らが指揮する鉄砲隊100名余を橋上に置き、櫓には幸田弥右衛門らを守備につかせていた。
午前2時30分頃、塙配下、大野配下、長岡配下の順に出撃。
功を焦り抜け駆けした二宮長範を先頭に1人また1人と敵に悟られぬよう腰を低くして橋を渡り蜂須賀至鎮の重臣・中村右近重勝の陣を目指して忍び寄った。
本町橋のみが残り、それ以外の橋が大坂方の手によって焼かれていたが、中村隊は夜襲など考えておらず、兵士たちは眠りにつき、不寝番の兵も皆揃って餅などを食べながら雑談しあい、守将の中村重勝も普段はつねに具足を脱がない勇士として評判であったがこの日は具足を身につけておらず油断していた。
大坂方による斬り込みが開始されると中村隊の者たちは不意をつかれ次々と討たれ、重勝も兜をつける暇もなく槍を持って飛び出し配下の兵を励ましながら応戦したが6名程の者に囲まれ討ち取られた。
短い時間であったがこの夜襲により、中村隊は、重勝と尾関重武をはじめ、30名余が戦死、50名余が負傷した(『武辺咄聞書』によれば中村右近のほかに武士214名、雑兵数十名が戦死、『当代記』によれば死傷者は100名に及ぶとされている)。
いっぽうで大坂方は10名余が戦死した(『山口休庵咄』によれば大坂方の犠牲者は1名とされている)。
豊臣方は蜂須賀本営から援軍が来ると撤退し、中村隊の旗や指物を拾い上げ、堂々と城内に引き揚げていった。
援軍に駆けつけた蜂須賀勢はこれを追ったが、橋上で治房配下の鉄砲隊が控えていたので撤退を余儀なくされた。
団右衛門ははじめ、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、引き揚げに際して「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせその名を広く知らしめた。
この戦いが契機になったわけではないが、12月19日、 家康は豊臣方と和睦した。
これにより、大坂冬の陣は終わったのである。
この合戦に登場する武将
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蜂須賀至鎮 (はちすかよししげ)
豊臣家臣。家政の嫡男。小田原征伐などに従軍。関ヶ原合戦では東軍に属した。戦後、家督を相続、阿波徳島藩の初代藩主となる。大坂の陣でも戦功を立てた。
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浅野長晟 (あさのながあきら)
徳川家臣。長政の次男。兄・幸長の死後紀伊和歌山藩主となる。大坂夏の陣では塙直之を討ち取るなど活躍した。福島家の改易後、安芸広島42万石を領した。
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池田忠雄 (いけだただかつ)
輝政の三男。母は徳川家康の娘・督姫。兄・忠継死去に伴い家督を継ぎ、備前岡山藩2代藩主となる。岡山城を改修して防備を固め。城下町を整備した。
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向井忠勝 (むかいただかつ)
徳川家臣。正綱の子。通称将監。父同様水軍を率い、大坂の陣で活躍。大坂湾の制海権を確保する。幕府の船手頭として水軍を管轄。造船の名手だった。
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徳川義直 (とくがわよしなお)
家康の九男。徳川御三家の一・尾張藩の藩祖で「剛」と評された。学問を好んで儒教を奨励。産業振興、税制整備、治水などを行い、藩政の基礎を固めた。
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池田利隆 (いけだとしたか)
徳川家臣。輝政の嫡男。父の死後、播磨姫路52万石を継ぐが、治世わずか3年で急逝した。継母・督姫が実子・忠継を後継とするために毒殺したという。
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佐竹義宣 (さたけよしのぶ)
佐竹家19代当主。義重の嫡男。父に劣らぬ猛将ぶりで知られた。関ヶ原合戦では西軍に属す決意を固くし、徳川家康から「今の世に稀な律儀者」と評された。
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上杉景勝 (うえすぎかげかつ)
出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。
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丹羽長重 (にわながしげ)
豊臣家臣。長秀の嫡男。越前北庄120万石を継ぐが、次第に減封され、関ヶ原合戦後は所領を失う。大坂の陣に従軍して活躍、陸奥白河10万石を領した。
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安田能元 (やすだよしもと)
上杉家臣。安田城主。恩賞問題のこじれにより自害した兄・顕元の跡を継ぐ。主家の会津移封に従い、二本松城代となった。会津三奉行の1人に数えられた。
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須田長義 (すだながよし)
上杉家臣。梁川城代。満親の子。関ヶ原合戦では本庄繁長と協力し、伊達政宗軍を福島口に撃破する。大坂の陣でも戦功を立て、徳川秀忠から感状をもらった。
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水原親憲 (すいばらちかのり)
上杉家臣。水原館主。御館の乱の際は上杉景勝を支持した。主家の会津移封後は猪苗代城代を務める。大坂の陣で戦功を立て、徳川秀忠から感状を下賜された。
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榊原康勝 (さかきばらやすかつ)
徳川家臣。康政の三男。長兄・忠政は他家の養子、次兄・忠長は早世のため、父の死後上野館林10万石を継いだ。大坂冬の陣では佐竹軍の窮地を救っている。
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木村重成 (きむらしげなり)
豊臣家臣。定光の子という。主君・秀頼の乳兄弟で、小姓を務めた。徳川家との和睦の際は豊臣家の使者を務めた。大坂夏の陣で井伊直孝軍と戦い、戦死した。
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後藤又兵衛 (ごとうまたべえ)
黒田家臣。侍大将を務めるが、謀叛の嫌疑により浪人。のち豊臣秀頼に招かれ、大坂城に入る。人望を集め、徳川軍相手に奮戦するが、大坂夏の陣で戦死した。
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渋江内膳 (しぶえないぜん)
佐竹家臣。主君・義宣の絶大な信頼を受け、秋田藩の経略に尽力。独自の検地法「渋江田法」により、藩財政の根幹を固めた。大坂冬の陣に従軍し、戦死した。
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穴沢俊光 (あなざわとしみつ)
蘆名家臣。伊達家の度重なる侵攻を撃退し続け、「北の門番」と恐れられた。伊達政宗の調略により、内応していた一族の奇襲を受け、自害した。
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青木一重 (あおきかずしげ)
はじめ今川家、次いで徳川家に仕え、姉川の戦いで活躍。後に出奔。丹羽長秀、豊臣秀吉・秀頼に仕え、七手組組頭となる。大坂の陣の後、徳川家に帰参した。
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渡辺糺 (わたなべただす)
豊臣家臣。槍の名手として作られる。母の正栄尼は秀頼の乳母を務めた。大坂の陣の主戦派で、大坂夏の陣では真田幸村とともに奮戦。城中で自害した。
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石川忠総 (いしかわただふさ)
徳川家臣。大久保忠隣の次男。母方の祖父・石川家成の養子となり、石川家を継いだ。父・忠隣失脚に連座するが、大坂の陣に許されて参陣、奮戦し活躍した。
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薄田兼相 (すすきだかねすけ)
豊臣家臣。大坂冬の陣で博労ヶ淵砦の守備に失敗し、「橙武者」と嘲られた。大坂夏の陣で勇戦し、戦死した。ヒヒ退治の豪傑・岩見重太郎と同一人物という。
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九鬼守隆 (くきもりたか)
志摩鳥羽藩主。嘉隆の子。関ヶ原合戦では東軍に属し、西軍の父と戦う。戦後、自らの行賞と引き替えに父の助命を乞うが、父はすでに自害した後だった。
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小浜光隆 (おはまみつたか)
徳川家臣。景隆の子。船手頭を務め、相模・上総両国で3千石を領した。大坂冬の陣に出陣し、大野治長の関船、早船をそれぞれ2隻ずつ乗っ取る功を立てて。
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大野治胤 (おおのはるたね)
豊臣家臣。治長の弟。道犬斎と称した。大坂夏の陣の際は堺を焼き討ちした。大坂城が落城すると脱出を図り、逃走するが捕らえられ、堺で斬首された。
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松平忠直 (まつだいらただなお)
結城秀康の嫡男。父の死後家督を継ぐ。大坂の陣では真田幸村軍の突撃を阻止するなど活躍。のちに幾多の不行跡を起こしたため、改易され配流処分となった。
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前田利常 (まえだとしつね)
加賀金沢藩主。利家の四男。兄・利長の跡を継ぐ。大坂の陣に参陣して功を立てた。藩の存続に努め、江戸幕府の警戒を欺くために愚鈍を装っていたともいう。
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井伊直孝 (いいなおたか)
徳川家臣。直政の次男。病弱だった兄・直継に代わって家督を継ぎ、近江彦根藩主となった。大坂夏の陣に参陣し、長宗我部盛親・木村重成の両軍を撃破した。
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南部利直 (なんぶとしなお)
南部家27代当主。信直の子。父の死後に家督を継ぐ。関ヶ原合戦では東軍に属し、最上家を救援した。領内の一揆を平定するなど、南部藩の基礎を築いた。
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松倉重政 (まつくらしげまさ)
筒井家臣。重信の子。主家の改易後は徳川家に属す。大坂の陣後、肥前島原城主となるが、重税や切支丹弾圧などの圧政を行い、島原の乱の原因を作った。
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南条元忠 (なんじょうもとただ)
南条家9代当主。羽衣石城主。元続の嫡男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易。のちに豊臣秀頼に属すが、大坂冬の陣の際に徳川軍への内通疑惑により殺された。
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本多政重 (ほんだまさしげ)
正信の次男。知に優れた父や兄・正純と対照的に豪胆で武勇に優れた。徳川家を出奔して諸大名に仕え、一時期、直江兼続の養子になっていたこともある。
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山崎長徳 (やまざきながのり)
朝倉家臣。主家滅亡後は明智光秀に属し本能寺の変に従軍。光秀の死後は柴田勝家に属し、賤ヶ岳合戦に従軍した。勝家の死後は前田家を経て徳川家に仕えた。
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真田幸村 (さなだゆきむら)
昌幸の次男。蟄居先の紀伊九度山から大坂城に入り、大坂の陣で寡兵ながらも徳川の大軍を相手に奮戦した。その戦いぶりは「真田日本一の兵」と称賛された。
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長宗我部盛親 (ちょうそかべもりちか)
元親の四男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、京で寺子屋を開く。のち大坂城に入り、藤堂高虎軍を壊滅させるなど活躍したが、大坂落城後、斬首された。
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塙団右衛門 (ばんだんえもん)
加藤家臣。鉄砲大将を務めたが、関ヶ原合戦の際に主君・嘉明と対立して出奔、浪人となる。のちに大坂城に入城、大坂夏の陣で浅野長晟軍と戦い、戦死した。
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大野治房 (おおのはるふさ)
豊臣家臣。治長の弟。大坂の陣の際は、主戦派の中心人物の一人となる。大坂落城後、国松丸(主君・秀頼の子)を擁して脱出するが、捕らわれて斬首された。
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御宿勘兵衛 (みしゅくかんべえ)
北条家臣。初名は綱秀、別名に政友。今川・武田家に仕えたあと、結城秀康に仕官。秀康の子・忠直の代に出奔して大坂城に入城、大坂夏の陣にて戦死した。