views : 1638
塙団右衛門を討ち取った亀田高綱(かめだたかつな)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、浅野家臣の亀田高綱(かめだたかつな)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
亀田高綱の生まれ
永禄1年(1558年)、尾張国葉栗郡にて柴田勝家の家臣である溝口半左衛門の子として誕生します。
当初は溝口半之丞と称し、勝家の養子である柴田勝豊に仕えます。
亀田高綱の活躍
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝豊が羽柴秀吉に味方したのに対し、亀田高綱は柴田勝家方に付いて奮戦した。
戦後は亀田権兵衛と変名して浅野長政・幸長・長晟と3代に仕え、小田原征伐・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いに従軍し、慶長6年(1601年)、浅野家が紀州へ移封された際に7,300石を与えられ家老となります。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の前哨戦である樫井の戦い(大阪府泉佐野市)では上田重安とともに豊臣軍を撃退した。
このとき塙団右衛門を打ち取ります。
上田重安が弓矢を額に射り落馬したところを、八木新左衛門が組付き首を打ち取った説。
亀田高綱あるいは横井平左衛門が打ち取った説があります。
上田重安(うえだしげやす)とは?現代にも続く茶道・上田宗箇流の祖【マイナー武将列伝】
浅野家が安芸広島に移封となり、備後双可郡東城の領主となり、因幡、出雲、備中との国境守備を担った。
寛永元年(1624年)、論功を巡って重安と争います。
主の浅野長晟の命で、亀田高綱の娘を上田重安の子息に嫁がせることになったが、高綱が拒否して和泉堺に勝手に隠遁した。
入道して鉄斎員徳と号し、高野山に隠棲し『亀田大隅一代働覚』、『泉州樫井表合戦次第覚書』を著した。
水野勝成らが調停を試みたが奏功せず、浅野長晟は、「他家に仕官しないなら去っても良い」との条件を出し、高綱は紀伊国伊都郡下天野(現和歌山県かつらぎ町)に移り住み、寛永10年(1633)に死亡しました。
信長の野望での亀田高綱
ゲーム信長の野望での亀田高綱のパラメーターを見てみましょう。
統率 47 (1483 位)
武勇 64 (607 位)
知略 52 (1383 位)
内政 47 (1476 位)
外政 46 (1529 位)
合計 256 (1387 位)
2200人中の順位です。
塙団右衛門を討ち取っただけあり武勇が高く設定されています。
まとめ
いかがでした?
西軍の幹部級である塙団右衛門を討ち取るが、その功を上田重安のものとされ、9年後までこの上田重安と争っているところを見ると本当に討ち取ったのは亀田高綱なのでしょうね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。