武将名鑑【信長の野望 新生】
塙団右衛門(ばんだんえもん)
塙団右衛門(ばんだんえもん)
塙団右衛門 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
67 (490 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
74 (262 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
30 (2141 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
29 (2095 位) | ||||
合計 | 200 (1510 位)2201人中 |
塙団右衛門 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 直之 長八 直次 尚之 | ||||
仮名・通称 | 須田次郎左衛門 時雨左之助 | ||||
法号・戒名 | 鉄牛 | ||||
配偶者・正室 | 可部屋桜井氏 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1567年 | 加藤家臣。鉄砲大将を務めたが、関ヶ原合戦の際に主君・嘉明と対立して出奔、浪人となる。のちに大坂城に入城、大坂夏の陣で浅野長晟軍と戦い、戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1615年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
血気 | 合戦で積極的に部隊攻撃を行う | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 16 |
塙団右衛門が登場する合戦
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本町橋の戦い [大坂冬の陣]
1614年12月17日
大阪府大阪市中央区本町橋
LOSE
徳川家康は真田丸での敗北の後、攻撃を自重し包囲を徐々にせばめていく方針にした。
豊臣方の砦が次々と占領され戦線が膠着していくなか、大野治房の配下に属していた塙団右衛門や御宿政友らの間で夜襲の相談が行われた。
大坂城内では和睦案に傾いていたため決行が急がれ夜襲の決行は12月17日に決まった。17日の午前2時頃、夜襲の人数は、大野治房、塙団右衛門、長岡是季、御宿政友の組下など侍120名余でその中には、神子田理右衛門という勇士の姿もあり、ほかにも上条又八と田積市郎兵衛が配下の足軽を城内に残して単独で駆けつけた。
このとき、団右衛門は夜襲参加者に槍ではなく刀を持つように指示し、また、肩には相印の白布をつけた。
夜襲を行うにあたり是季は池田忠雄の救援に備えて見張りをつけ、治房と政友は追尾の敵に備えて治房の足軽頭である三宅久太夫、安井少右衛門らが指揮する鉄砲隊100名余を橋上に置き、櫓には幸田弥右衛門らを守備につかせていた。午前2時30分頃、塙配下、大野配下、長岡配下の順に出撃。
功を焦り抜け駆けした二宮長範を先頭に1人また1人と敵に悟られぬよう腰を低くして橋を渡り蜂須賀至鎮の重臣・中村右近重勝の陣を目指して忍び寄った。
本町橋のみが残り、それ以外の橋が大坂方の手によって焼かれていたが、中村隊は夜襲など考えておらず、兵士たちは眠りにつき、不寝番の兵も皆揃って餅などを食べながら雑談しあい、守将の中村重勝も普段はつねに具足を脱がない勇士として評判であったがこの日は具足を身につけておらず油断していた。
大坂方による斬り込みが開始されると中村隊の者たちは不意をつかれ次々と討たれ、重勝も兜をつける暇もなく槍を持って飛び出し配下の兵を励ましながら応戦したが6名程の者に囲まれ討ち取られた。短い時間であったがこの夜襲により、中村隊は、重勝と尾関重武をはじめ、30名余が戦死、50名余が負傷した(『武辺咄聞書』によれば中村右近のほかに武士214名、雑兵数十名が戦死、『当代記』によれば死傷者は100名に及ぶとされている)。
いっぽうで大坂方は10名余が戦死した(『山口休庵咄』によれば大坂方の犠牲者は1名とされている)。
豊臣方は蜂須賀本営から援軍が来ると撤退し、中村隊の旗や指物を拾い上げ、堂々と城内に引き揚げていった。
援軍に駆けつけた蜂須賀勢はこれを追ったが、橋上で治房配下の鉄砲隊が控えていたので撤退を余儀なくされた。団右衛門ははじめ、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、引き揚げに際して「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせその名を広く知らしめた。
この戦いが契機になったわけではないが、12月19日、 家康は豊臣方と和睦した。
これにより、大坂冬の陣は終わったのである。 -
岸和田城の戦い [大坂夏の陣]
1615年4月28日
大阪府岸和田市岸城町
岸和田城
大野治房の大和郡山城攻めに連動して、大野治長は弟の大野治胤や塙団右衛門・岡部町綱・御宿勘兵衛ら3,000余の兵を率いて大坂城を出陣し、紀伊(和歌山県)に向かいました。
豊臣方は、大阪城の南に位置する浅野長晟の和歌山城を攻略しようとしたのである。
4月28日、塙団右衛門・岡部則綱らの先陣が岸和田城を攻撃したが、徳川方の岸和田城主である小出吉英、弟の小出吉親や親族の金森可重・伊東治明らに阻まれて落とすことはできなかった。このため大野勢は岸和田城攻略を諦め、大野治胤ら一手を残して和歌山城を目指し南下していきました。
-
樫井の戦い [大坂夏の陣]
1615年4月29日
大阪府泉佐野市南中樫井
大野治長率いる豊臣勢が2万余の大軍となって紀伊に向かうなか、紀伊和歌山城主の浅野長晟は出陣を決心します。
国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから出陣を見合わせていたが、4月28日に5,000余の兵を率いて出陣し、和泉樫井で豊臣勢を迎え撃ちます。
29日早朝、豊臣方の岡部則綱・塙団右衛門・淡輪重政ら兵3,000の先鋒が浅野勢に攻撃を仕掛ける。
浅野家臣の亀田高綱は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引します。樫井では亀田隊に浅野氏重、上田重安らが加わり豊臣軍と激戦になりました。
塙団右衛門と岡部則綱は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙団右衛門・淡輪重政が討死してししまった。
太平記三十六番相撲:第三十二之番「塙直行」(落合芳幾作)
豊臣勢は総崩れとなり、和泉貝塚に本陣をおいていた大野治長らは大坂城に退却した。
紀伊の一揆は留守居の熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略により鎮圧された。
この戦いで豊臣勢はますます劣勢になっていったのであった。
塙団右衛門を討ち取った亀田高綱(かめだたかつな)とは?【マイナー武将列伝】
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