武将名鑑【信長の野望 新生】
蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)
蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)
蜂須賀至鎮 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
65 (562 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
51 (1275 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
62 (787 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
69 (418 位) | ||||
合計 | 247 (556 位)2201人中 |
蜂須賀至鎮 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 豊雄 忠吉 | ||||
幼名 | 千松丸 | ||||
法号・戒名 | 峻徳院殿心岳義伝 | ||||
父 | 畑山元氏 | ||||
母 | ヒメ(慈光院・生駒家長の娘) | ||||
配偶者・正室 | 敬台院(小笠原秀政の娘・徳川家康の養子) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1586年 | 豊臣家臣。家政の嫡男。小田原征伐などに従軍。関ヶ原合戦では東軍に属した。戦後、家督を相続、阿波徳島藩の初代藩主となる。大坂の陣でも戦功を立てた。 | |||||||||
死亡年 | 1620年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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防災 | 同一城に属する全ての郡で災害回避上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 未登場 |
蜂須賀至鎮が登場する合戦
-
木津川口砦の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月19日
大阪府大阪市西成区
木津川口砦の戦いは大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦いである。
木津川と尻無川の合流点に豊臣方が築いた木津川口砦があった。
この砦は豊臣方が大坂城外の要所に築いた出城のひとつで、明石全登が兵800で守備していた。
木津川口の砦の正確な位置はわからないが、現在の道頓堀川口辺とみられる。
徳川方の偵察隊の一人である森村重は「飯を炊く際に出る煙が少ないので、兵数が少ないと思われます」と蜂須賀至鎮に報告したため、砦への攻撃が決定。
11月19日、徳川方は蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄らが3000余の兵を率いて、豊臣方の木津川口砦を攻撃する。
水陸の二手に分かれて進み、木津川から迫った蜂須賀水軍の40艘の軍船が水上から砦を火攻めにし、陸路から近づいた軍勢も一斉に攻撃をしかけ、砦はその日のうちに徳川軍方の手に落ちたのであった。
不幸にも守将の明石全登は軍議のために大坂城へ赴いて留守であり、一族の明石全延が守っていたため指揮が上手くいかず、蜂須賀軍の挟撃で大混乱に陥り、大した抵抗も出来ないまま博労淵に撤退してしまう。
伝法川口では、幕府船奉行・向井忠勝および徳川義直、池田利隆らの軍船50余艘が、往来する船舶の検問にあたっていたが、新家に敵船があるのを見つけたため、徳川義直、池田利隆らの兵船とともに、敵船を追いこの地も占領した。
豊臣方は木津川口の砦と新家の輸送基地を失ったことにより、大坂城と大坂湾を結ぶ水上補給路が遮断されたのである。
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博労淵の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月29日
大阪府大阪市西区
豊臣方は、木津川口砦とともに、木津川沿岸の守備のため博労淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に砦を築き、薄田兼相が守将として兵700で守備しており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。
この博労淵砦は、水路を扼する要地にあり、木津川口砦とともに木津浦の出口を守っていた砦である。11月29日、徳川軍の蜂須賀至鎮、池田忠雄、石川忠総らが博労淵の砦を攻め、これを奪取した。
寄せ手の徳川軍は、石川忠総の兵が5隻の船で伝法口から進み、蜂須賀至鎮の兵は水陸の2隊に分かれて進み、数十隻の舟に分乗して木津口から迫った一隊の到着とともに、一斉に砦内に突入したのである。守将の薄田兼相は前夜から神崎の遊女屋に泊まり込んで不在だったため、砦は守将が不在の間にあっさり陥落した。
遊女と戯れている間に砦を徳川方に陥落されたため、薄田兼相は味方から「橙武者」と軽蔑されることになる。
その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というもの。つまり、「橙は酸味が強くて、正月飾りにしか使えず見かけ倒し」なので体格の良い薄田兼相も見かけ倒しだという意味になる。この砦の陥落により、豊臣方は、海上からの補給路を断たれてしまったのである。
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本町橋の戦い [大坂冬の陣]
1614年12月17日
大阪府大阪市中央区本町橋
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徳川家康は真田丸での敗北の後、攻撃を自重し包囲を徐々にせばめていく方針にした。
豊臣方の砦が次々と占領され戦線が膠着していくなか、大野治房の配下に属していた塙団右衛門や御宿政友らの間で夜襲の相談が行われた。
大坂城内では和睦案に傾いていたため決行が急がれ夜襲の決行は12月17日に決まった。17日の午前2時頃、夜襲の人数は、大野治房、塙団右衛門、長岡是季、御宿政友の組下など侍120名余でその中には、神子田理右衛門という勇士の姿もあり、ほかにも上条又八と田積市郎兵衛が配下の足軽を城内に残して単独で駆けつけた。
このとき、団右衛門は夜襲参加者に槍ではなく刀を持つように指示し、また、肩には相印の白布をつけた。
夜襲を行うにあたり是季は池田忠雄の救援に備えて見張りをつけ、治房と政友は追尾の敵に備えて治房の足軽頭である三宅久太夫、安井少右衛門らが指揮する鉄砲隊100名余を橋上に置き、櫓には幸田弥右衛門らを守備につかせていた。午前2時30分頃、塙配下、大野配下、長岡配下の順に出撃。
功を焦り抜け駆けした二宮長範を先頭に1人また1人と敵に悟られぬよう腰を低くして橋を渡り蜂須賀至鎮の重臣・中村右近重勝の陣を目指して忍び寄った。
本町橋のみが残り、それ以外の橋が大坂方の手によって焼かれていたが、中村隊は夜襲など考えておらず、兵士たちは眠りにつき、不寝番の兵も皆揃って餅などを食べながら雑談しあい、守将の中村重勝も普段はつねに具足を脱がない勇士として評判であったがこの日は具足を身につけておらず油断していた。
大坂方による斬り込みが開始されると中村隊の者たちは不意をつかれ次々と討たれ、重勝も兜をつける暇もなく槍を持って飛び出し配下の兵を励ましながら応戦したが6名程の者に囲まれ討ち取られた。短い時間であったがこの夜襲により、中村隊は、重勝と尾関重武をはじめ、30名余が戦死、50名余が負傷した(『武辺咄聞書』によれば中村右近のほかに武士214名、雑兵数十名が戦死、『当代記』によれば死傷者は100名に及ぶとされている)。
いっぽうで大坂方は10名余が戦死した(『山口休庵咄』によれば大坂方の犠牲者は1名とされている)。
豊臣方は蜂須賀本営から援軍が来ると撤退し、中村隊の旗や指物を拾い上げ、堂々と城内に引き揚げていった。
援軍に駆けつけた蜂須賀勢はこれを追ったが、橋上で治房配下の鉄砲隊が控えていたので撤退を余儀なくされた。団右衛門ははじめ、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、引き揚げに際して「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせその名を広く知らしめた。
この戦いが契機になったわけではないが、12月19日、 家康は豊臣方と和睦した。
これにより、大坂冬の陣は終わったのである。
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