武将名鑑【信長の野望 新生】
大谷吉継(おおたによしつぐ)
大谷吉継(おおたによしつぐ)
大谷吉継 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
89 (30 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
68 (452 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
90 (29 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
80 (143 位) | ||||
合計 | 327 (56 位)2201人中 |
大谷吉継 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 吉隆 | ||||
幼名 | 桂松 | ||||
仮名・通称 | 紀之介 平馬 大谷刑部 | ||||
法号・戒名 | 白頭 渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門 | ||||
父 | 大谷吉房 | ||||
母 | 東殿 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1559年 | 豊臣家臣。関ヶ原合戦で西軍に属す。親友・石田三成のために病をおして奮戦、藤堂高虎の軍を撃退するが、寝返った小早川秀秋軍に攻められ敗北、自害した。 | |||||||||
死亡年 | 1600年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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用兵 | 敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
策謀 | 特殊な調略具申が可能 | ||||||||||
射手 | 合戦で積極的に高所から射撃 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 24 |
大谷吉継が登場する合戦
-
積善寺城の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市橋本
千石堀城を攻撃したのと同じ3月21日夕刻、羽柴勢は細川藤孝、細川忠興・蒲生氏郷・大谷吉継・稲葉典道・筒井定次・伊藤長弘・佐々行政らは地蔵堂丸山古墳に陣を置き、根来寺の出城である和泉積善寺城を攻めた。
根来寺衆徒が鉄砲などで反撃を試みたため、力攻めが得策でないと判断した秀吉は、貝塚御坊(願泉寺)のト半斎了珍に和睦を仲介させる。
これに根来衆が応じたため、翌22日に積善寺城は開城した。 -
千石堀城の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市名越
紀伊に向かった羽柴勢は羽柴秀次を大将として、まず根来寺の出城であった和泉千石堀城を攻める。
羽柴秀次隊には堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千の兵が加わった。
天正13年(1585年)3月21日の夕刻から総攻撃がかけられた。
まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入り二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取った。
しかし本丸は根来寺の衆徒らが鉄砲を用いてよく防いだため、豊臣秀次軍に1,000名の死者が出た。
この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという。
筒井順慶隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め翌22日に千石堀城は落城。
秀吉が助命を認めなかったため、城兵とその一族はことごとく殺害された。
-
伏見城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
宇喜多秀家 (28)石田三成 (40)前田玄以 (61)本多正信 (62)鈴木重朝 (39)島津義弘 (65)小早川秀秋 (18)大谷吉継 (41)毛利秀元 (21)吉川広家 (39)小西行長 (41)長宗我部盛親 (25)鍋島勝茂 (20)長束正家 (44)WIN
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伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
大谷吉継が登場する記事一覧
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