武将名鑑【信長の野望 新生】
後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
後藤又兵衛 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
82 (101 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
89 (32 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
69 (474 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
32 (2035 位) | ||||
合計 | 272 (300 位)2201人中 |
後藤又兵衛 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 後藤基次 正親 氏房 正次 年房 | ||||
仮名・通称 | 弥八郎 | ||||
法号・戒名 | 西照院殿夏安道蓮大居士 心岩宗伝居士 | ||||
父 | 後藤基国 | ||||
母 | 神吉頼氏の娘 | ||||
配偶者・正室 | 三浦四兵衛の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1560年 | 黒田家臣。侍大将を務めるが、謀叛の嫌疑により浪人。のち豊臣秀頼に招かれ、大坂城に入る。人望を集め、徳川軍相手に奮戦するが、大坂夏の陣で戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1615年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
用兵 | 敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 23 |
後藤又兵衛が登場する合戦
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今福・鴫野の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月26日
大阪府大阪市城東区今福・鴨野
大坂城北東2kmほどの位置に、大和川(寝屋川)の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。
豊臣方は今福村に3カ所の堀切と4重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞にそれぞれ兵300で守備させていた。
鴫野砦では井上五郎右衛門・小早川左兵衛・竹田兵庫ら2,000の兵が守りを固めていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両砦の奪取を命じます。
今福砦へは佐竹義宣が兵1,500で、鴫野砦には上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重が攻めいります。
11月26日夜明け、戦いは佐竹隊による今福砦への急襲から始まった。佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第4柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。
豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。
その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じた。大坂城から後藤又兵衛隊兵3,000が駆けつけ木村重成を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。
渋江政光は第1柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。鴫野砦では、砦の守備兵もよく守り、とくに秀頼の武術師範をも務めたともいう穴沢盛秀は大長刀を水車のように振り回して多くの敵をなぎ倒した。
そこへ城中から繰り出した青木一重や渡辺内蔵助らの率いる新手の兵が駆けつけてきたため、上杉隊も苦戦を強いられることとなった。上杉勢の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。
上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ親憲が大声で左右にどくよう指示し、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。
上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加え、そこへ安田能元隊が槍を入れたため、徳川軍は苦戦しながらも両砦を陥落させ豊臣軍は撤退した。
この戦いは大坂冬の陣最大の激戦とも言われ、双方ともに多数の死傷者を出した。大坂方の後藤又兵衛は退却の際に被弾して血まみれの姿になって帰城したといい、徳川勢ではとくに佐竹隊の損耗が激しく、翌日には佐竹隊に代えて本多忠朝以下、浅野長重や真田信吉・信政兄弟、仙石忠政・秋田実季らに今福砦の守備が命じられたという。
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真田丸の戦い [大坂冬の陣]
1614年12月4日
大阪府大阪市天王寺区真田山
LOSE
豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などの河川堀の役目をし守られていたが、地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
そのため豊臣方は、手薄である南面を防御するため、惣構の外に出丸を築いていた。
真田信繁(幸村)によって築かれたので、この出丸を俗に真田丸という。豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、徳川幕府軍は大坂城を包囲した。
真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。12月2日、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。
真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚したため、南条は城内で切腹させられた。
しかし豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。
前田勢の先鋒・本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。
夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。
前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。
真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。
前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。
豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
この戦いで徳川方は数千人が討ち取られたという。 -
郡山城の戦い [大坂夏の陣]
1615年4月27日
奈良県大和郡山市城内町
大和郡山城
大坂に向けて進軍する徳川家康の動きをみて、豊臣方の大野治長の弟・大野治房が後藤又兵衛ら2,000余の兵を率いて暗峠を越えて大和に侵入し、大和郡山城を攻撃します。
この郡山城主は以前筒井順慶の居城であった城で、このときは徳川方の順慶の養子である筒井定慶が1,000余の兵で守っていました。
しかし豊臣方による突然の夜襲に驚き、城兵の逃亡が相継ぐ。抵抗の不利を悟った定慶は、城を捨てて落ちのびていきます。
ほどなく家康の家臣・水野勝成の軍勢が大和に入ったため、治房も郡山城を放棄して大坂城に撤収している。
この合戦が戦端となり大坂夏の陣が始まりました。
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道明寺の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府藤井寺市道明寺一帯
二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。大和ルートの水野勝成・伊達政宗・松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。
大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛・薄田兼相・真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。
5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
しかし真田信繁・毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。午前4時、後藤は松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成・堀直寄が来援してかろうじて助かった。小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗・松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。
いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。
薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。
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