武将名鑑【信長の野望 新生】
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
安国寺恵瓊 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
21 (2188 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
36 (1927 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
64 (683 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
83 (96 位) | ||||
合計 | 204 (1421 位)2201人中 |
安国寺恵瓊 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 瑶甫恵瓊 一任斎 正慶 | ||||
幼名 | 竹若丸 辰王丸 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1538年 | 毛利家臣。武田信重の子。武田家滅亡時に逃れ出家。外交僧を務めた。織田信長と豊臣秀吉の将来を予言した事で著名。関ヶ原合戦で西軍に属し、斬首された。 | |||||||||
死亡年 | 1600年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
能史 | 街道に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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治癒 | 自部隊の兵力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 16 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 23 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 33 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 45 |
安国寺恵瓊が登場する合戦
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下田城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月1日 ~ 23日
静岡県下田市三丁目
豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆半島における北条水軍最大の拠点であった伊豆下田城攻めが始まる。
豊臣水軍の脇坂安治の1300余・長宗我部元親の2500余・加藤嘉明隊・九鬼嘉隆の1500余らの大軍は、2月26日に駿河の清栄湊に寄港したあと、伊豆下田沖に向かい、4月1日に下田城を攻撃した。
城を守っていた伊豆衆筆頭の清水康英は、嫡子の政勝、弟の英吉や家臣の高橋丹波守らの城兵600余で籠城し、豊臣水軍1万4000余からの攻撃を50日余り凌いだが、4月23日に脇坂安治、安国寺恵瓊らと起請文を交わし、城を開けて降伏した。
降伏した康英は、一命を助けられて下田城を退去した。
-
松坂城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日
三重県松阪市殿町
伏見城を落とした西軍の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。
このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。
松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。
戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。
大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。
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安濃津城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日 ~ 25日
三重県津市丸之内
安濃津城(津城)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。
富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。富田、分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。
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