武将名鑑【新信長の野望】
織田信長(おだのぶなが)
織田信長(おだのぶなが)
織田信秀の嫡男。戦国三英傑の筆頭
織田信長 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
676 (1 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
444 (28 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
465 (19 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
341 (20 位) | ||||
合計 | 1926 (2 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 34702 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 桶狭間の戦いで今川義元を破る。それ以降は天下布武を掲げ、相次いで敵勢力を滅ぼしたが、天下統一目前で明智光秀に裏切られ、本能寺で死した。 | ||||||||||
タイプ | 統 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 鉄砲 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
「第六天魔王」はフロイスがイエズス会に宛てた書簡報告書で見られた名称である。天台座主沙門を自称した武田信玄の書状に返事する際、信長が使った署名。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
統率が高いため、最大指揮兵力が多い。 自鉄砲部隊の攻撃力をUP。 複数敵部隊への大ダメージ、敵部隊に重ねがけ可能な永続デバフを付与する奥義が超強力! |
織田信長が登場する合戦
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萱津の戦い(かやづのたたかい) [織田信長の尾張統一]
1552年8月16日
愛知県海部郡甚目寺町
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赤塚の戦い(あかつかのたたかい) [松平氏と織田氏・今川氏]
1553年4月17日
愛知県名古屋市緑区鳴海町
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村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい) [松平氏と織田氏・今川氏]
1554年1月24日
愛知県知多郡東浦町森岡
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清須城の戦い(きよすじょうのたたかい) [織田信長の尾張統一]
1555年4月20日
愛知県清須市一場
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長良川の戦い(ながらがわのたたかい) [斎藤道三の興亡]
1556年4月20日
岐阜県岐阜市道三町一帯
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稲生の戦い(いのうのたたかい) [織田信長の尾張統一]
1556年8月24日
愛知県名古屋市西区塚町一帯
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浮野の戦い(うきののたたかい) [織田信長の尾張統一]
1558年5月28日
愛知県一宮市千秋町浮野
織田信長は尾張下四郡守護代の織田信友を討ち、稲生の戦いで弟の信勝との内訌に勝利し、さらに尾張国守護の斯波義銀をも追放し、尾張一国の平定に乗り出す。
しかし尾張上四郡を支配していた嫡流岩倉織田氏の守護代・織田信安はいまだ健在であった。
信安は信長の父の信秀の妹を妻とし、若年の頃の信長とも私的に交流があった人物であるが、長良川の戦いの際には美濃の斎藤義龍と手を組み信長を攻撃するなど、この当時は敵対関係にあった。
ところが、信安は長子の信賢を遠ざけ、次子の信家を跡継ぎとしようと画策したことにより信賢と対立し、信賢により追放されていた。
岩倉城に拠る尾張上四郡守護代となった織田信賢は、斎藤義龍と組んで信長に対抗していく。
岩倉織田氏の内紛を見た信長は信賢との戦いに備え、父の信秀死後は独立勢力化していた犬山城主の織田信清に、自身の姉の犬山殿を嫁がせて、信清を味方に組み入れた。
永禄元年(1558年)5月、清須城の信長を討つために出陣してきた信賢の3000の軍勢を、信長の2000余の軍勢は尾張浮野で迎え撃つ。
激戦であったが信長の元に従兄弟にあたる犬山城主の織田信清の援軍1000が到着すると、形勢は一気に傾き、信長軍が勝利した。
この戦いで信長方は1250余を討ち取ったという。
敗れた信賢は、岩倉城に敗走した。
この浮野の戦いにおいて信賢勢として活躍した林弥七郎は弓の名手であり、信長方の鉄砲の名手である橋本一巴と一騎打ちを演じたとされる。
両者痛み分けとなり林は負傷した。
撤退の際に追い打ちをかけてきた佐脇良之(前田利家の弟)の右肘を林が斬って負傷させたものの、最後は佐脇に討ち取られたと伝わる。
その他、岩倉勢には後に織田・豊臣政権下で活躍する山内一豊の父の山内盛豊や、同じく堀尾吉晴の父の堀尾泰晴も参戦している。
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岩倉城の戦い(いわくらじょうのたたかい) [織田信長の尾張統一]
1558年6月 ~ 8月
愛知県岩倉市下本町城址
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桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい) [松平氏と織田氏・今川氏]
1560年5月19日
愛知県名古屋市緑区
桶狭間古戦場
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森辺の戦い(もりべのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1561年5月14日
岐阜県安八郡安八町森部
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十四条の戦い(じゅうしじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1561年5月23日
岐阜県本巣市十四条
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軽海の戦い(かるみのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1561年5月23日 ~ 24日
岐阜県本巣市軽海
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犬山城の戦い(いぬやまじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1563年2月 ~ 1564年7月8日
愛知県犬山市犬山
国宝 犬山城
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新加納の戦い(しんかのうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1563年4月
岐阜県各務原市那加新加納町
永禄4年(1561年)、美濃に侵攻しながらも結局は退陣に追い込まれていた織田信長は、永禄6年(1563年)4月、5700の軍勢を率いて木曽川を渡ると美濃各務原に侵入し、そのまま斎藤龍興の居城である稲葉山城にほど近い新加納に布陣した。
信長が付近の村に火を放ちながら、稲葉山城の城下にあたる井口に向かうと、これに対し稲葉山城から斎藤龍興の軍勢3500が打って出てきて新加納で戦いとなった。
数に勝る信長軍が勝つと思われていたが、龍興の家臣・竹中半兵衛の伏兵策に翻弄され、信長軍は900余が討ち取られ敗北した。
この合戦で活躍した半兵衛に対し、龍興は褒賞するどころか前と相変わらず馬鹿にしたりしたため、翌年2月に自身の留守中に僅か16人で居城の稲葉山城を乗っ取られた。
その半年後城は返されたものの半兵衛は斎藤家を出奔し、斎藤家は衰退していくことになる。
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鵜沼城の戦い(うぬまじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1565年8月
岐阜県各務原市鵜沼
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猿啄城の戦い(さるばみじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1565年8月
岐阜県加茂郡坂祝町勝山
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堂洞砦の戦い(どうぼらとりでのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1565年9月28日
岐阜県美濃加茂市鉢屋町
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関の戦い(せきのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1565年9月29日
岐阜県関市
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河野島の戦い(かわのしまのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1566年8月29日
岐阜県羽鳥郡岐南町
斎藤道三の死によって尾張・美濃の同盟関係が破れると、織田信長は幾度か美濃への侵入を企てた。
永禄9年(1566年)8月29日、信長は美濃国境まで進軍するも、予期せぬ出水に遭遇し木曾川を越えて濃尾国境に位置する河野島まで進軍して境川の南岸に布陣した。
それを知った斎藤龍興も直ちに稲葉山城を打って出て、境川の北岸に着陣した。
斎藤側は、境川を限りとして守備したが、翌30日に木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった。
ようやく水の引いた閏8月8日未明、利がないと判断した信長が木曾川を渡って尾張に撤退しようとしたところを龍興が追撃する。
これにより、織田方の兵が討死や溺死するなどして敗北した。
織田軍は武器を捨てて退散するという有様だったという。
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楠城の戦い(くすじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1567年8月
三重県四日市市楠町
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高岡城の戦い(たかおかじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1567年8月
三重県鈴鹿市高岡町
永禄10年(1567年)8月、楠城を攻略した織田信長は、伊勢神戸城主・神戸具盛の属城で楠城からは西側へおよそ1キロほどの場所に位置する高岡城を2万の軍勢で攻撃した。
このとき信長は城下を焼き払って高岡城を裸城にしたうえで攻撃を仕掛けたが、具盛の家老で高岡城主の山路弾正がよく守り戦線が膠着する。
合戦当時信長は、稲葉山城も包囲し美濃制圧の最終段階でもあった。
それを知っていた山路弾正は、美濃三人衆の安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全らに「信長の背後を討つ絶好の機会である」という密使を送り、信長方へ「美濃三人衆が寝返り武田信玄と結んだ」と流言した。
信長は美濃三人衆の寝返りを恐れ、全軍を尾張に撤退させる。
翌永禄11年(1568年)2月、信長は再び伊勢に侵攻して高岡城を攻めているが、このときも高岡城を攻略することはできなかった。
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稲葉山城の戦い(いなばやまじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1567年8月1日 ~ 15日
岐阜県岐阜市大宮町
稲葉山城(岐阜城)
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神戸城の戦い(かんべじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1568年2月
三重県鈴鹿市神戸
永禄10年(1567年)の伊勢侵攻に失敗した織田信長は、翌永禄11年(1568年)2月、再び4万の軍勢で北伊勢に侵入して神戸具盛が守る神戸城を包囲する。
不利を悟った具盛は、一人娘に信長の三男である三七(織田信孝)を婿養子として迎えるという条件で和睦した。
以後三七は神戸三七郎と名乗っている。
養子入りに際しては、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが信孝付きとして付けられた。
神戸具盛は養子となった三七郎を冷遇したため信長の勘気にふれて、元亀2年(1571年)に信長に命じられた蒲生賢秀により近江日野城に幽閉させられると、三七郎に神戸氏の家督を譲るように強制された。
神戸氏家老の高岡城主である山路弾正らはこれに激しく抗議したが、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれた。
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安濃城の戦い(あのうじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1568年2月
三重県津市安濃町安濃
神戸城の神戸具盛を降伏させた織田信長は、永禄11年(1568年)2月さらに南下して中勢地域の長野氏を滅ぼそうとした。
そのためにまずは、長野氏の別家である細野氏を滅ぼすことを企て、まず織田氏の宿老であった滝川一益に細野藤敦が守る安濃城を攻めさせた。
細野家中は織田家への対応のため分裂していく。
城主の細野藤敦は、信長との和睦を望んでいた藤敦の弟の分部光嘉らの反対を押し切って、伊勢国最大級の城郭とも呼ばれる安濃城に籠って防戦しようとした。
光嘉や川北藤元らは織田家に内応して信長の弟の織田信包に長野氏の跡を継がせるべく画策し、藤敦が織田家に寝返ったと讒言して、長野具藤に藤敦を攻めさせた。
藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
光嘉が、 信長の弟の信良(信包)を長野氏の家督に迎えるという条件で信長に降伏すると、安濃城の藤敦も抗戦する意味がなくなり信長に降った。
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箕作城の戦い(みつくりじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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和田山城の戦い(わだやまじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘和田町
織田信長は、箕作城と同時に六角氏側の主力の一つである和田山城も稲葉良通(一鉄)が率いる第1隊に攻撃させていた。
しかし箕作城の落城を知った和田山城を守る田中治部大輔らは、戦わずに夜のうちに逃亡してしまった。
たった1日で箕作城と和田山城が共に落ちたことに落胆した六角承禎・義治父子は、9月12日に夜陰に乗じて居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃れた。
翌13日、信長が観音寺城に入城すると六角方の18の支城も1つを除き開城し、六角氏の家臣は信長に降伏した。
この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。
ちなみに抵抗を続けていた六角氏の城は蒲生賢秀が守る日野城であった。
結果的に賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛の説得で、賢秀は信長に人質を差出して忠節を誓った。
この人質が蒲生氏郷である。
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勝龍寺城の戦い(しょうりゅうじじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月26日 ~ 29日
京都府長岡京市神足
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芥川城の戦い(あくたがわじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月29日
大阪府高槻市原
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池田城の戦い(いけだじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月30日 ~ 10月2日
大阪府池田市城山町
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阿坂城の戦い(あざかじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日
三重県松阪市大阿坂町
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大河内城の戦い(おかわちじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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天筒山城の戦い(てづつやまじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
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金ヶ崎城の戦い(かねがさきじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月26日
福井県敦賀市金ヶ崎町
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姉川の戦い(あねがわのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1570年6月28日
滋賀県長浜市野村町・三田町
姉川古戦場
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野田・福島砦の戦い(のだ・ふくしまとりでのたたかい) [織田信長と三好三人衆]
1570年8月26日 ~ 9月23日
大阪府大阪市福島区玉川付近
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志賀の陣(しがのじん) [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月24日 ~ 12月14日
滋賀県大津市坂本一帯
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太田口の戦い(おおたぐちのたたかい) [織田信長の長島一向一揆鎮圧]
1571年5月16日
岐阜県海津市南濃町太田
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を5万の兵を率いて鎮圧するために乗り出します。
織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えました。そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍します。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍しました。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍をめがけ、願証寺の一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかります。
山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦するも負傷し退却します。氏家卜全も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣もろとも全滅。大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。
一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していきました。
信長の侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、願証寺証意は35歳で急逝する。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男・願証寺顕忍が引き継ぐ事となった。
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小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1571年8月18日 ~ 27日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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延暦寺の戦い(えんりゃくじのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1571年9月12日
滋賀県大津市坂本本町
比叡山延暦寺阿弥陀堂
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小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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二条御所の戦い(にじょうごしょのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年4月2日 ~ 7日
京都府京都市上京区中立売
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二条御所の戦い(にじょうごしょのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年7月7日 ~ 12日
京都府京都市上京区中立売
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槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年7月18日
京都府宇治市槇島町
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大嶽城の戦い(おおづくじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月12日 ~ 13日
滋賀県長浜市湖北町伊部
浅井長政と織田信長との対峙が続くなか、長政配下の山本山城主である阿閉貞征が子・貞大と共に信長に内応する。
8月10日、内応によって孤立した小谷城を攻略すべく、信長は自ら3万の大軍を率いて北近江への侵攻を開始し、虎御前山の砦に本陣を布いた。
長政から後詰の要請を受けた朝倉義景も、大軍を率いて出陣すると、刀禰坂を経て柳ヶ瀬に着陣し、先陣が小谷城の一郭にあたる大嶽城に入っている。
12日、阿閉貞征・貞大父子が先手を務め、織田軍はこの大嶽城を急襲した。
朝倉勢は形成を不利とみて柳ヶ瀬に敗走していったため、信長は小谷城の包囲を嫡男の信忠に任せ、自ら先頭をきって朝倉軍の追撃を実行し、刀根坂の戦いとなる。
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刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
疋壇城の戦い(ひきだじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月14日
福井県敦賀市疋田
刀禰坂の戦いで朝倉勢は約3000名が討死すると言う大敗北を喫し、体勢を立て直すため当主の朝倉義景は朝倉氏の両国最南端を守る疋檀(疋田)城に入った。
しかし8月14日の早朝から織田勢の猛攻を受け、朝倉勢は敗走する。
義景もわずかな手勢で一乗谷城へ落ちていった。
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小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月27日 ~ 9月1日
滋賀県湖北市伊部
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明智城の戦い(あけちじょうのたたかい) [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1574年2月5日
岐阜県恵那市明智町
天正2年(1574年)2月、武田勝頼は織田信長を圧迫するため東濃に15000余の軍勢で出陣し、遠山氏の重要な拠点であった明智城を攻撃する。
このころ明智城は、元亀3年 (1572年) の上村の戦いで城主の遠山景行とその子の景玄が敗死していたため、景玄の子の遠山一行と叔父の遠山友治ら500の兵が守っていた。
明智城の重要性を理解していた織田信長は、2月5日に嫡男の信忠、明智光秀や美濃の諸将(池田・蜂屋・河尻・森・塚本)など尾張・美濃の軍勢3万の兵を率いて出陣したが、武田方の信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
織田軍は明智城を赴援できず、明智城の開城をみて2月24日に岐阜に帰陣した。
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本願寺の戦い(ほんがんじのたたかい) [石山合戦]
1574年4月3日
大阪府大阪市中央区大阪城
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長島の戦い(ながしまのたたかい) [織田信長の長島一向一揆鎮圧]
1574年7月13日 ~ 9月29日
三重県桑名市長島町
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高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい) [石山合戦]
1575年4月8日 ~ 21日
大阪府羽曳野市古市
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新堀砦の戦い(しんぼりとりでのたたかい) [石山合戦]
1575年4月17日 ~ 19日
大阪府大阪市住吉区長居東
高屋城の包囲を続けながら、織田信長は4月13日には摂津天王寺に陣をおくと、本願寺周辺の刈田を行う。
摂津・大和・山城・若狭・美濃、尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・根来衆の増援軍が続々と到着し、織田軍は総勢10万余の大軍となった。
さらに16日には住吉に陣を移すと、本願寺の支城であった摂津新堀砦を包囲する。
17日、織田軍はこの城を取り巻き、19日に堀に草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門・搦手門の両方に突撃し、170余の首級をあげた。
本願寺に加勢をしていた十河一行は討死し、香西長信は生捕にされ斬首された。新堀砦が陥落し孤立する形となった本願寺は、 越前一向一揆が鎮定されると松井友閑を仲介にして10月に再び信長と和睦している。
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設楽原の戦い(したらがはらのたたかい) [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1575年5月21日
愛知県新城市長篠一帯
設楽原古戦場 馬防柵
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木ノ芽峠城の戦い(きのめとうげじょうのたたかい) [織田信長の越前一向一揆鎮圧]
1575年8月15日
福井県南条郡南越前町二ツ屋
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龍門寺城の戦い(りゅうもんじじょうのたたかい) [織田信長の越前一向一揆鎮圧]
1575年8月15日
福井県越前市本町
木ノ芽峠城や鉢伏城の戦いに敗れて越前府中に敗走した一向一揆勢は、すでに海路から府中に入っていた羽柴秀吉・明智光秀らに討ち取られてしまう。
8月15日の夜、織田勢は一揆勢の大将・三宅権之丞が守る府中の龍門寺城を奇襲して占拠すると、ここを信長の本陣とした。
こののち数万人の一向一揆勢が虐殺されたといい、信長自身が書状において「府中は死がい計にて、一円あき所なく」と報告している。 -
豊原寺の戦い(とよはらじのたたかい) [織田信長の越前一向一揆鎮圧]
1575年8月16日
福井県坂井市丸岡町豊原
下間頼照は、天台宗の豊原寺に立て籠もっていた。
織田信長の大軍が再び越前に雪崩れ込むと、天正3年(1575年)8月16日、「豊原三千坊」と謳われた豊原寺の数百の堂舎を信長は焼き払い、頼照は海路から加賀に逃れようとする。
しかし、頼照は同じ浄土真宗でも本願寺派と対立する真宗高田派の熊坂専修寺門徒に発見され、首を討たれた。
これにより越前一向一揆は壊滅した。 -
天王寺の戦い(てんのうじのたたかい) [石山合戦]
1576年5月3日 ~ 7日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
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木津浦の戦い(きづうらのたたかい) [石山合戦]
1576年7月13日
大阪府大阪市大正区千島一帯
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貝塚の戦い(かいづかのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月17日
大阪府貝塚市中
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孝子峠の戦い(きょうしとうげのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
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中野城の戦い(なかのじょうのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日 ~ 28日
和歌山県和歌山市中野
孝子峠を突破した織田勢は、紀伊に侵入して雑賀衆の拠る紀伊中野城を包囲した。
弥勒寺山城に本陣をおいた雑賀衆は、和泉との国境に近いこの中野城を前線基地とし周囲に城砦を築いて織田勢を迎え撃とうとしていたのである。
水運の便に恵まれた中野城は、戦略物資の輸送には適していたが、2月22日に織田勢の大軍の前に降伏した。
中野城を奪取した織田勢が、ここを前線基地として雑賀の本陣の雑賀城に迫ることになる。
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平井城の戦い(ひらいじょうのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
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雑賀川の戦い(さいかがわのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年3月2日 ~ 15日
和歌山県和歌山市小雑賀一帯
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雑賀の戦い(さいかのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年7月
和歌山県和歌山市一帯
天正5年(1577年)3月15日に織田信長と雑賀衆は和睦した。
しかし、雑賀衆が一方的に敗れたわけではない。
そのため織田勢が退陣したあと、鈴木重秀らは同じ雑賀衆でも信長に味方した雑賀三緘(みかわり)を筆頭とした三緘衆を攻撃し始めたのである。三緘衆は雑賀五郷に含まれていたが、東にあった根来衆の影響が大きいため海側の雑賀衆とは別派閥と言える。
この報せを受けた信長は、軍勢を再び紀伊に送るが雑賀を平定することはできなかった。
こののちも重秀を中心とする雑賀衆は本願寺と通じて、信長に抗戦を続けることになるのである。 -
木津浦の戦い(きづうらのたたかい) [石山合戦]
1578年11月6日
大阪府大阪市大正区千島一帯
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有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい) [荒木村重の謀反]
1578年11月14日 ~ 1579年11月19日
兵庫県伊丹市伊丹
有岡城
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本能寺の変(ほんのうじのへん) [本能寺の変]
1582年6月2日
京都府京都市中京区元本能寺町
本能寺跡
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