室町幕府の滅亡
室町幕府の滅亡
1573年2月
細川藤孝と足利義昭
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石山砦の戦い(いしやまとりでのたたかい)
1573年2月24日 ~ 26日
滋賀県大津市石山寺
元亀4年(1576年)2月、織田信長に反旗を翻した足利義昭は、近江瀬田城主・山岡景隆の弟で園城寺(三井寺) 光浄院の山岡景友(暹慶)に信長の入京を阻止するよう命じます。
そのため山岡景友は急いで石山と今堅田に砦を築いた。
これに対し2月20日、信長は家臣の柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを派遣し、24日に織田軍は勢田から琵琶湖を渡り石山砦を攻撃する。
石山砦には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が守備していたが、未完成の砦での防戦を断念した山岡景友は26日に降伏して退去した。
その後豊原寺跡には柴田勝家の甥である柴田勝豊が入り豊原寺城を築いた。
中嶋城の戦い(なかじまじょうのたたかい)
1573年2月27日
大阪府大阪市淀川区木川西
元亀4年(1573年)2月27日、反信長派の三好義継は松永久秀とともに、 細川昭元が守る摂津中嶋城(堀城)を攻撃した。
このころにはすでに管領細川家の勢威は衰えていたが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったので、入京した織田信長に利用されていた。
義継・久秀は、昭元を和泉堺に敗走させると、3月6日にはそれまで対立してきた足利義昭から赦免され、義昭と結んで信長に対抗することにしたのである
今堅田砦の戦い(いまかたたとりでのたたかい)
1573年2月29日
滋賀県大津市今堅田
元亀4年(1573年)2月26日に石山砦を落とした柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら織田勢は、柴田勝家を守りに残すと今堅田砦に向かった。
2月29日、織田軍は湖上に面した今堅田城を攻撃した。
織田勢は二手に分かれており、丹羽長秀・蜂屋頼隆らは陸路を北上して陸上から攻撃を加えており、水路を北上した明智光秀らは午前8時ごろ湖上から攻撃を加えている。
足利義昭についた渡辺昌・磯谷久次らが籠城して防戦に努めたが、正午ごろに明智隊が城に突入し落城。
この戦いで義昭側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされ、一方で光秀は家臣18人がこの戦いで戦死している。
光秀は今堅田を平定後、そのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。
高槻城の戦い(たかつきじょうのたたかい)
1573年3月11日
大阪府高槻市城内町
元亀2年(1571年)の郡山合戦(白井河原の合戦)で和田惟政が戦死し、跡を継いだ子の和田惟長は元亀4年(1573)に家中で信望を集めつつあった高山友照・右近父子の暗殺を計画した。
会議と称して高山父子を惟長の居城の高槻城に誘い出したが、計画は既に高山父子に露見していたため、両者の付添い人を交えての激しい斬り合いとなった。
この戦闘で惟長は深手を負ったが、右近もまた重傷を負ったため、高槻城から山城伏見まで逃亡した。
3月11日の時点で致命傷のため生存は難しいとさ、その数日後に惟長は死去したとされる。
二条御所の戦い(にじょうごしょのたたかい)
1573年4月2日 ~ 7日
京都府京都市上京区中立売
二条御所の戦い(にじょうごしょのたたかい)
1573年7月7日 ~ 12日
京都府京都市上京区中立売
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)
1573年7月18日
京都府宇治市槇島町
淀城の戦い(よどじょうのたたかい)
1573年8月2日
京都府京都市伏見区納所北城堀
幕臣であった勝竜寺城の細川藤孝は、将軍・足利義昭が追放されると、姓を長岡と改めて織田信長に従う。
そして天正元年(1573年)8月、信長の命により足利義昭に味方した三好三人衆の一人である岩成友通が籠城する山城淀城を攻めた。
木下秀吉が淀城を包囲すると計略を用いて、番頭義元と諏訪盛直らを内応させます。
防御に適している城だったので、内応している番頭義元と諏訪盛直らは岩成友通に淀古城から打って出ることを進言した。
進言通り打って出るも、番頭義元と諏訪盛直らは動かず、友通は細川藤孝の家臣・下津権内に討ち取られ、近江・高島にいた織田信長の元に首が届けられた。
友通の死により、三好三人衆も没落していくことになった。
若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)
1573年11月16日
大阪府東大阪市若江南町
元亀4年(1573)7月の槇島城の戦いに敗れた足利義昭は、河内若江城に三好義継を頼った。
入洛した織田信長に従い北河内を安堵されていた三好義継だったが、義昭の妹を室に迎えていたことから信長と義昭が対立すると、義昭に同調したのである。
義昭はまもなく堺に移ったが、信長は佐久間信盛に命じ義継を攻めさせた。
義継は籠城して迎え撃ったが、肝心の義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡してしまった。
10日以上も奮戦したが義継の家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆は信長の実力を恐れて佐久間信盛に内通し佐久間軍を城門に引き入れたため落城。
義継は妻子一族を自ら殺害し、11月16日に近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自身も自害した。
これにより三好氏の嫡流は滅亡した。
多門城の戦い(たもんじょうのたたかい)
1573年12月26日
奈良県奈良市多門町
入京した織田信長にいち早く降り、多聞城と信貴山城を拠点に大和の支配を任されていた松永久秀であったが、元亀4年 (1573年)3月に足利義昭と結んで信長に反旗を翻す。
信長は佐久間信盛・筒井順慶らに命じ、久秀とその子の久通が拠る多聞城を攻撃させた。
4月に武田信玄が病死し、7月に義昭が信長に追放され、11月に三好義継が若江城の戦いで討たれたりと状況が悪くなり、松永久秀は多聞山城を包囲していた佐久間信盛の軍に和議を申し込み12月に降伏した。
信長はすでに11月29日の段階で佐久間信盛に「多聞山城を没収して赦免するよう」指示していたため、重ねての反逆に対して多聞山城を明け渡す条件で許している。
12月26日、久通の子を人質に差し出し、多聞山城は開城され佐久間信盛と福富秀勝と毛利長秀が受け取りの奉行となった。
伊丹城の戦い(いたみじょうのたたかい)
1574年11月15日
兵庫県伊丹市伊丹
元亀4年(1573年)に足利義昭が槇島城の戦いで織田信長に敗れたあとも、信長による義昭与党の掃討は続いていた。
摂津伊丹城の伊丹親興は、3月の高槻城の戦いで城を追われた和田惟長の姻戚にあたり、信長と対立し続けていたため、翌天正2年(1574年)11月15日に、信長は荒木村重に伊丹城攻めを命じた。
村重の攻撃により伊丹城が落城し親興は自害。
この合戦に登場する武将
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柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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蜂屋頼隆 (はちやよりたか)
織田家臣。黒母衣衆の1人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。
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柴田勝豊 (しばたかつとよ)
柴田家臣。叔父・勝家の養子となる。長浜城主を務めた。のちに勝家と対立し、その事を知った羽柴秀吉に攻められ、降伏した。賤ヶ岳合戦の直後、病死した。
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三好義継 (みよしよしつぐ)
十河一存の子。三好長慶の死後、三好三人衆の後見で宗家を継ぐ。織田信長に降るが、京を追われた足利義昭を保護したため、織田軍の攻撃を受け、敗死した。
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松永久秀 (まつながひさひで)
三好家臣。主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。のち織田信長に属し、謀叛を起こすが敗れ「平蜘蛛」とともに爆死した。
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細川昭元 (ほそかわあきもと)
織田家臣。晴元の嫡男。足利義昭を擁して上洛した織田信長に属す。義昭の偏諱を受け昭元と名乗り、信長の妹・犬を娶った。信長の蹴鞠の相手などを務めた。
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高山友照 (たかやまともてる)
織田家臣。荒木村重に属して高槻城主となる。村重の謀叛に同調、村重の敗走後は越前の柴田勝家に預けられた。のち各地を流浪した。切支丹として著名。
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高山右近 (たかやまうこん)
織田家臣。高槻城主。友照の子。父と同じくキリスト教に入信する。各地の合戦で活躍するが、後に改宗を拒否したため改易され、幕府の命で呂宋へ追放された。
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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足利義昭 (あしかがよしあき)
室町幕府15代将軍。織田信長の後援で将軍職に就くがのちに対立、周辺諸国と協力して信長包囲網を敷く。自らも挙兵するが信長軍に敗れ、京を追われた。
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佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
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蒲生元珍 (がもうもとよし)
織田家臣。父・茂綱の死後、家督を継ぎ所領を安堵される。佐久間信盛の与力として各地に従軍した。本能寺の変後は織田信孝に属す。のちに前田家に仕えた。
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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岩成友通 (いわなりともみち)
三好家臣。三好三人衆の1人。三好家一族同様の扱いを受けた。将軍・足利義昭の挙兵に応じ、山城淀城に籠城するが、細川藤孝らの軍に攻められ、敗死した。
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筒井順慶 (つついじゅんけい)
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
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松永久通 (まつながひさみち)
三好家臣。大和多聞山城主。久秀の子。父に従い、将軍・足利義輝の謀殺などに加担した。のちに織田信長に属すが、父とともに信長に背いて敗れ、自害した。
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荒木村重 (あらきむらしげ)
池田家臣。有岡城主。のちに織田家に仕えて摂津経略を担当するが、本願寺・毛利家と結び謀叛を起こして敗れ、逃亡。茶人となり、利休七哲の1人となった。