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毛屋武久(けやたけひさ)は何をした人?家康から餅もらった人!【黒田二十四騎】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは黒田二十四騎の一人・毛屋武久(けやたけひさ)、別名毛屋主水(けやもんど)です。
変な名前!
「(毛屋)初めまして、私、毛屋主水(けやもんど)です。」
「(上司)な、なんて?」
「(毛屋)け・や・も・ん・どです。」
「(上司)も、もんど!?門戸?」
「(毛屋)「あるじ」に「みず」で、も!ん!ど!」
「(上司)「あるじ」に「みず」で、もんど?はぁ!?」
っていう会話を想像します。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
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黒田二十四騎
毛屋武久は黒田二十四騎です。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。
- 黒田兵庫助利高 : 黒田孝高の実弟・黒田職隆の次男 黒田八虎の一人
- 黒田修理亮利則 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の三男 黒田八虎の一人
- 黒田図書助直之 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の四男 黒田八虎の一人
- 黒田三左衛門一成 : 黒田孝高の養子 黒田八虎の一人
- 栗山善助利安 : 黒田八虎の一人
- 井上九郎右衛門之房 : 黒田八虎の一人
- 母里太兵衛友信 : 黒田八虎の一人
- 後藤又兵衛基次 : 黒田八虎の一人
- 毛屋主水武久
- 吉田六郎太夫長利 : 黒田孝高の乳兄弟
- 村田兵助吉次
- 三宅山太夫家義
- 益田与助正親
- 堀平右衛門定則
- 久野四兵衛重勝
- 原弥左衛門種良
- 林太郎右衛門直利
- 野村太郎兵衛祐勝 : 母里友信の異母弟
- 野口藤九郎一成
- 竹森新右衛門次貞
- 桐山孫兵衛信行
- 衣笠久左衛門景延
- 菅六之助正利
- 小河伝右衛門信章
毛屋武久は黒田二十四騎の中で最も知行が少ないですが、他家を渡り歩き当時の著名人だったようです。
それでは、毛屋武久の生涯を見ていきましょう。
生まれ
毛屋武久は近江国(滋賀県)神崎郡の豪族・田原長久の嫡男として1554年に生まれました。幼名は(田原)虎千代。
他の黒田二十四騎である井上之房と同い年です。
織田信長と六角義賢の戦いで父・田原長久が戦死したため、幼い虎千代は六角氏に仕えた書家建部賢文に養育されました。
田原金十郎時代
元亀2年(1571年 田原虎千代が17歳の頃)、田原金十郎と名乗り和田惟政に仕えるが、同年のうちに惟政が織田信長に倒されたため、近江に戻って山崎片家に仕えました。
近江の在地勢力である山崎氏は六角義賢の配下であったが、情勢に鑑みて織田氏に転属した。
その後、柴田勝家の家臣となった田原金十郎は、武田勝頼との長篠の戦いに参加。
また、三木城攻めで、羽柴秀吉勢が敵の追撃を受けて、絶体絶命の危機を迎えていた蒲生氏郷の軍勢を救出する功を挙げています。
山崎片家が播磨国三木城攻め(三木合戦)に参加した際、敗走する味方の蒲生氏郷の軍勢を救出します。
毛屋主水時代
その後、柴田勝家の家臣となった金十郎は長篠の戦いなどに従軍し、越前国毛屋畠の一揆を鎮圧した際に勝家から300石を賜り、その地名に由来する「毛屋」の姓を与えられ、以降「毛屋主水正 (毛屋主水正)」と名乗るようになりました。
その後、賭博疑惑を掛けられ、毛受勝照の力添えを得て、柴田勝家の元を去ると、能登の前田利家に3年間80石の扶持をもらって匿ってもらった。
1578年(毛屋主水が23歳の頃)、荒木村重との有岡城の戦いには織田勢の雑兵として参戦。
1580年(毛屋主水が25歳の頃)、摂津の池田恒興に700石で仕えた。
1583年(毛屋主水が28歳の頃)、池田家が美濃国大垣城主となった際に致仕し、佐々成政に仕えた。
黒田家に仕官
1588年(毛屋主水が33歳の頃)、肥後国の統治に失敗し、国人一揆を引き起こした引責で佐々成政が改易されると、毛屋主水・勝野伊右衛門・浅賀左馬助の3人は豊前中津17万石を与えられていた黒田官兵衛・黒田長政に300石で仕官。
天正18年(1590年)、奥州会津42万石の大名となった蒲生氏郷は、若き頃の恩を理由に歴戦の士である毛屋主水を1万石で登用したいと打診したが、主水は「黒田家は唐入り(文禄・慶長の役)が決まっており、その前に退去することはできない。無事に帰ることができたら蒲生家に移籍する」として断っている。
朝鮮では、黒田長政が川の上流の敵が渡河したかどうか判断に迷った際「川の水が濁っており、馬の藁が流れているから、敵は既に川を渡ったでしょう」と答えるなど、これまでの豊富な経験を基に、明の大将・解生を撤退させるなどの戦功を立てて無事に帰還した。
唐入りの戦場では経験を基にして数々の戦功を立て、無事に帰還したが、長政の妨害に遭い、300石の加増が取り消され蒲生家への転属は行われなかった。
長く各家を渡り歩いていたために家族を持っていなかったが、40歳を越えたこの時期に、黒田長政の命で豊前一揆で戦死した宇都宮鎮房 (城井鎮房) の重臣・鬼木掃部の娘・長を正室に迎えた。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年 毛屋主水が46歳の頃)の関ヶ原の戦いでは黒田家の旗奉行・竹森新右衛門が老齢だったので、毛屋主水は黒田家の旗奉行に就任。
黒田長政の本戦に参加した。
合戦に際して徳川家康から直に長年の経験を求め呼び出さました。
物見として正確に敵情を探り、過大に宣伝されていた敵兵の数が、実際には戦意がある敵が少ないことを報告し味方の士気を上げた。
敵(西軍)は12万とも言われたが「当面の敵は戦意のある島津毛・石田三成・小西行長ら総勢3万だけで、雑魚兵も混ざっているので、実質は2万」と的確に進上し、徳川勢の士気をあげたため、徳川家康より「見積もり上手」として絶賛され、その場にあった饅頭を褒美として受け取ったと言う。
晩年
関ヶ原の戦いのあとは、700石と加増され、黒田二十四騎である益田正親の組下に入れら、足軽30人を面倒みました。
大坂の役にも61歳と高齢ながら黒田長政と共に従軍しています。
元和6年(1620年)、大坂城の普請に当たる。
元和8年(1622年)、菅正利の子・重利に「主水正」の称号を与えるため、長政の命により「武蔵守」を称することとなる。
寛永3年(1626年)、子の武重に家督を譲る。
寛永5年(1628年)10月26日、病を得て死去。75歳。
まとめ
いかがでしたか?
彼は、THE戦国武将で、さまざま主君に仕えていっていましたね。
和田惟政→山崎片家→織田信長→柴田勝家→前田利家→池田恒興→佐々成政→黒田長政
転職しまくりですが、いつも士官できたので相当優秀だったんでしょうね。
そして有名な家康から餅をもらった話。
関ヶ原を扱う作品にはよく出てくる話なので、しっかり押さえて置くように!次のテストに出ますよ!
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!