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櫛橋光(くしはしてる)とは?初代福岡藩主・黒田長政を産んだ官兵衛の正室【戦国時代の女性】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回は、黒田官兵衛の妻として、黒田長政を産んだ櫛橋光姫を紹介していきたいと思います!
大河ドラマ「軍師官兵衛」では、中谷美紀さんが演じていましたね。
それでは、早速いってみましょう。
目次[非表示]
櫛橋光の生まれ
櫛橋光(くしはしてる)は本名で、法号は「照福院殿然誉浩栄大尼公」、歌のために作った雅号が「幸円(または幸圓、こうえん)」です。
2013年「てる」ではなく「みつ」と呼んでいる古文書が発見されています。
播磨国印南郡志方(現・兵庫県加古川市志方町)の志方城主・櫛橋伊定の娘として1553年に産まれます。
姉に妙寿尼(上月城主の上月景貞室)、妹に黒田八虎の一人・井上之房室がいる。
この頃の播磨国は、播磨国守護に任じられていた龍野の赤松氏、後に三木の干殺しで有名となる三木の別所氏、そして秀吉の右腕となる黒田官兵衛が属する
御着の小寺氏などの小大名が乱立していた時代でした。
父・櫛橋伊定は御着の小寺政職(こでらまさもと)の重臣でした。
黒田職隆
小寺家臣。姫路城主。播磨の豪族・香山重道を討つ功を立てたため、主君・政職の養女を娶り、家老に就任した。のちに「小寺」姓と「職」の一字を拝領した。
現在の姫路城は世界文化遺産となっていますが、これは黒田家が移動し池田輝政時代の頃に築城されたもので、黒田職隆や官兵衛が城主だった頃は、土堀がある館程度であったと言われています。
御着城・姫路城・志方城の位置関係はこんな感じ。
黒田職隆の嫡男である黒田官兵衛如水は永禄10年(1567年)、22歳になっていました。
元服・初陣が終わり、次は結婚ということになります。
重臣・櫛橋伊定の娘・光と家老・黒田職隆の嫡男・官兵衛を政略結婚されることで小寺家の安泰を図ろうとしたんですね。
政職の媒酌により結婚は行われました。このとき光は15歳でした。
また、櫛橋伊定も官兵衛の将来を見込んでおり、結婚以前に櫛橋伊定は官兵衛に赤合子の兜と胴丸具足を贈っています。
これは当サイトのファビコンにもなっていますね。
その後官兵衛は、キリシタンである影響か当時としては珍しく側室を一人も持っていません。
官兵衛の父・職隆は、44歳と働き盛りでしたが、官兵衛の結婚と同時期に隠居し、家督を官兵衛に譲っています。
長男長政の誕生
官兵衛が家督を継いだ翌年の永禄11年(1568年)に、長男が生まれ、「松寿丸(しょうじゅまる)」と名づけます。
これが後の初代福岡藩主・黒田長政です。
嫁いですぐ子に恵まれるが、第二子はそれから14年後で、次男・熊之助を産みます。
熊之助が16歳になった慶長2年(1597年)、朝鮮の役で官兵衛・長政は朝鮮に出兵しており、熊之助は中津城で留守をしていました。
自分だけ留守をしていることが我慢できず、官兵衛・長政に許可を得ずに母里吉太夫(母里友信の嫡男)・加藤吉松(黒田一成の弟)など同年代の家臣を連れて、陣中見舞いと称して、船で朝鮮に渡ろうとします。
しかし関門海峡を出たあたりで嵐に遭い、船が転覆し船もろとも海底に沈んでしまったのである。
遺骸も見つからず、光や官兵衛はさぞかし落ち込んだことでしょう。
生家が織田家に滅ぼされる
織田信長が京都や摂津(大阪北)まで勢力を広げ、播磨(兵庫県南部)が織田家とぶつかるのも時間の問題であった情勢で、播磨の豪族らは東に位置する延暦寺を焼き討ちしたりと無茶苦茶やって裏切り者に容赦ない織田家に付くか、それとも「中国者の律儀」と称された西の中国地方の毛利家に付くかを選択せざる負えません。
播磨の多くの豪族は毛利に付くことを主張しますが、黒田官兵衛だけは織田家に付くことを主張し小寺家での意見を織田家側にまとめます。
その結果、織田家家臣の羽柴秀吉が姫路に入城し、播磨のその他の豪族も織田家に仕えます。
しかし、天正6年(1578年)3月摂津有岡城主の荒木村重や毛利の外交僧・安国寺恵瓊の策略により織田家に仕えると表明した播磨の豪族は黒田家を除いてことごとく毛利側に変わります。
この中には、主家である小寺家や、光の実家である櫛橋家も含まれます。
しかし同年7月、別所氏の神吉城を落とされ、志方城は織田信雄の兵に包囲され、同年8月10日に櫛橋氏は降伏します。
この際、城主の命を着替えに兵士の助命を嘆願したとされるが、この城主は父・伊定とも兄・政伊ともいわれています。
なお、兄・政伊の子は許されて、後に黒田氏に仕えています。
夫・官兵衛が捕まる
摂津有岡城主の荒木村重が織田家に反旗を翻した際、説得が得意な黒田官兵衛は家臣の反対を押し切り単身で荒木村重を説得しにいきました。
説得叶わずここで、捕らえられてしまいます。
残念。
織田信長は官兵衛が敵に寝返ったと激怒し人質の松寿丸を殺すよう指示しますが、秀吉の参謀である竹中半兵衛は命をかけ松寿丸を匿いました。
秀吉もはじめは官兵衛を疑っていたようである。
黒田家の家臣たちはというと、官兵衛が織田家を裏切ることは絶対にないと信じていおり、「戻ってこないのは、幽閉されたから」と信じて疑いませんでした。
そこで、結束を固めるための連署起請文を作成し、今後も一致団結して主家のために奔走することを官兵衛の妻である光に誓いました。
1年かかって有岡城が落城し、その際に官兵衛は救出されました。
豊臣政権下
豊臣政権下では、全国の大名や家臣は謀反ができないように、それぞれの正室や嫡男を人質として大阪城に呼び寄せ住まわせていました。
光も、官兵衛は豊臣秀吉の腹心として活躍し豊前国中津12万石の大名になると、他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれます。
関ヶ原の合戦の際の大脱出
長政が家康の養女を娶ったのはまさに関ヶ原の前夜です。
婚儀が6月6日で、10日後には長政は家康に従い会津上杉攻めに従軍し、大阪を離れていっています。
生前、秀吉が大阪城や京の伏見城周りに大名屋敷を作らせ、そこに妻子を住まわせたのはいざというときに人質に取るためでした。
挙兵を決意した石田三成は、秀吉が作ったこの制度を利用し家康に従って関東に向かっていった諸将が迂闊な行動を起こせないようにしました。
官兵衛は居城の中津に戻っていたが、戻るときにそのようなことが起こることを予測し、脱出の手順などを指示していたのである。
案の定、長政らが大阪を離れると、大阪の天満にあった黒田屋敷に大阪城から使いが来て、「妻女を大阪城内にお移しするように」との命令を伝えてきた。
天満屋敷には、官兵衛の妻である光と長政の嫁いできたばかりのねね姫がいました。
留守を守っていた家老の栗山善助・母里太兵衛・宮崎助太夫は相談の上、黒田家出入りの商人・納屋小左衛門の家に二人の身柄を移し、検分にあらわれた大阪城からの使いには、光・ねね姫に似た女性を身代わりとして見せ、その場しのぎをする危ない場面もありました。
中津から官兵衛が遣わした迎えの船が大阪に着いたものの、警備は厳しく、納屋小左衛門の家から港まで移動させることが難しく、何一かが経過した。
ところが7月17日の夜、玉造方面で火災が発生し、警備の兵が玉造に向かい、やや警備が手薄になったところで光とねね姫をそれぞれ木箱に入れ、裏の川から小舟に乗せ、監視の目をくぐり抜け、大阪湾で待っている船に運び込むことに成功したという。
ちなみにこの玉造での火災は、細川忠興の妻・ガラシャが、同じように人質として収監されそうになった際に、これを拒み家老の小笠原少斎に自分の胸を突かせ、その後屋敷に火を放ったものであった。
光の最後
関ヶ原の戦いの論功行賞で長政は初代福岡藩主となりました。
光は福岡県太宰府市にある太宰府天満宮で余生を過ごしました。
75歳で亡くなります。
墓は、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)、圓應寺(福岡)にある。
まとめ
いかがでしたか?
才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)と称され、夫・黒田官兵衛孝高を支え、初代福岡藩主となった黒田長政を産んだ光。
夫が幽閉されたり、人質になりそうなところを脱出したりと戦国時代の妻として肝が据わっていたのではと思います。
それでは、今後も戦国時代の女性の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
臣下百姓の罪恐るべし 黒田如水(ミネルヴァ書房)
櫛橋光(wikipedia)