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規模が大きい戦ランキングTOP5
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
戦国時代はまさに戦の時代だったわけで、全国各地で戦・下剋上が起こっていました。
今回は「規模が大きい戦ランキングTOP5」ということで、果たしてどの戦の規模が大きかったのかを調査しました。
読者の方はどの戦がランクインすると思いますか?
それではみていきましょう!!!
目次[非表示]
第5位 小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いとは、1584年3月から11月にかけて、清洲会議で織田信長の後継者と決まった三法師の後見人になった羽柴秀吉と、それに対して不満がある後継者になれなかった織田信雄・徳川家康連合軍の間で行われた戦いである。
第5位は「小牧・長久手の戦い」です。
羽柴陣営が戦力10万人、織田信雄・徳川家康陣営が戦力3万人の計13万人です!
甲子園の収容人数が4万7千人なので、その大きさがわかると思います。
小牧の戦いや長久手の戦いなどの総称を「小牧・長久手の戦い」と呼んでいるので、厳密には1回の戦ではありません。
第4位 関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いとは、豊臣秀吉の死後、求心力を失いつつある豊臣家に忠義を示した石田三成(西軍)と、徐々に自分の時代が来たとなりふり構わなくなった徳川家康(東軍)との1600年に行われた戦いです。
戦いは東軍である徳川家康が僅か6時間で勝利しました。
第4位は「関ヶ原の戦い」です。
西軍が8万人、東軍が10万人(諸説あり)で両軍合わせて18万人です!
第3位 大阪夏の陣
大阪夏の陣とは、盤石な体制を築いた徳川VS秀吉亡き後求心力を失った豊臣及び浪人衆の1615年に行われた戦いです。
豊臣側の真田幸村が徳川家康本陣に迫りましたが一歩届かず、大阪城は落城し当主豊臣秀頼とその母淀殿は自害し豊臣家は滅亡しました。
やはり大阪の陣はランクインしていましたね。
日本史上最高に出世した豊臣秀吉は、子宝に恵まれず子の秀頼が成人する前に亡くなってしまったため、大坂の陣で豊臣家滅亡に向かいました。
晩年の豊臣秀吉は誰も喜ばない朝鮮出兵や、千利休や豊臣秀次を死に追いやったりと行動が狂っていたので、滅亡は必然だったのかもしれません。
日本を掌握した豊臣家と長生きし着々と自分の出番を待った徳川家康の戦いが見事3位にランクインしました!
豊臣側が5万5千人、徳川家が16万5千人の計22万人です!
豊臣側が先の冬の陣で4万人の損害を出しているので、少なくなっています。
第2位 小田原征伐
小田原征伐とは、1590年に豊臣秀吉が、最後まで抵抗していた家である北条氏を降した戦いである。
第2位は「小田原征伐」です。
豊臣軍が15万人、北条軍が8万人で、計23万人です。
豊臣秀吉の日本統一の総仕上げとなる一戦が
第1位 大阪冬の陣
大阪冬の陣とは、1614年11~12月に豊臣秀頼軍と徳川家康軍が大阪で争いました。
最終的には講和となりましたが、その結果無敵の大阪城の堀を埋められる羽目になりました。
その結果、半年後の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡してしまいます。
第1位は「大阪冬の陣」です。
豊臣側が9万人、徳川家が20万人の計29万人です!