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戦国武将の忍者の実態は?本当に活躍したのか?
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は戦国時代の忍者の生態について書いていこうと思います。
それでは行ってみよう。火遁豪火球の術!!!!
目次[非表示]
忍者は本当に活躍したのか?
戦国時代を舞台にした小説や映画には忍者がつきものだが、合戦で活躍した忍者の話はあまり聞いたことがないだろう。
実際に忍者が合戦で活躍した事例はほとんどない。
ただ、裏方として活躍し味方の勝利に貢献するケースはあった。
例えば、1560年の桶狭間の戦いだ。桶狭間の合戦では、織田信長が今川義元を討ち取ったが、その勝利の裏には柴田政綱の情報網があった。
政綱は忍者を使って、義元本陣の動向をキャッチしたからこそ、信長は義元の本陣を襲うことができた。
また、1585年の人取橋の合戦でも忍者が活躍した。
これは、伊達政宗の軍勢8000と佐竹氏・芦名氏・石川氏・白河氏・岩城氏・二階堂氏らの反伊達連合軍3万が、人取橋で激突した合戦だ。
この合戦で伊達軍は、数で圧倒する反伊達連合軍に押されていく。
この危機を救ったのが、伊達の忍びである伊達忍者である。彼らは、石川氏と白河氏が伊達氏に通じているという噂を反伊達連合軍に流した。
噂は直ちに広まり、疑われた石川氏・白河氏は軍を払い、反伊達連合軍は崩れる。そのおかげで、政宗は反伊達連合軍を退けることができたのだ。
忍者の役職とは?
伊賀忍者・甲賀忍者などというように、多くの忍者は一匹狼ではなく、何らかの組織に属している。組織に属するからには、サラリーマン同様上司にあたる忍者もいれば、部下の忍者もいた。
忍者の組織は、大きく「上忍」「中忍」「下忍」の3ランクに分かれていた。
上忍
上忍とは会社で言えば社長や取締役といったところです。
戦国大名たちと契約を交わし条件交渉を行うのが主たる仕事で、忍び装束を着て屋敷に忍び込むといった現場作業は行わなかった。
中忍
中忍は会社でいうと中間管理職にあたる。上忍からの指令を受け自分たちより下位の下忍を率いて現場に赴く。上忍からの指令は絶対で逆らうことは許されない。
どんな無理な命令も聞かねばならず、現在の中間管理職よりはるかに厳しい立場であった。
下忍
下忍は中忍のもとで働く実戦部隊で要は平サラリーマンだ。
いずれに属するかは家格によって決まった。
映画などで有名な服部半蔵や百地三太夫は上忍の家系。よって刀や手裏剣で敵と戦うことはなかったとみられる。
一方で下忍で有名なのは、大盗賊として有名な石川五右衛門。下忍暮らしに嫌気がさし、組織を抜けて盗賊稼業に身をやつしたと言われる。
ただし、以上は伊賀忍者の場合で、甲賀忍者には上忍がなく、中忍・下忍の2種類だけで、戦国大名たちと契約を交わすのは、中忍の仕事だった。
その一方で中忍は、実戦部隊である下忍の指揮も行っていた。
忍者はどうやって情報を集めたのか?
忍者の仕事は基本的に情報収集だった。
忍者というと、刀や手裏剣の名手という印象を受けるが、これも敵を倒すというより情報収集のため、敵地に忍び込みそこから無事脱出するための技術であった。
具体的にどうやって情報収集したかというと、変装しての潜入である。
行商人や芸人、虚無僧、修験者、猿薬師、僧侶など、旅から旅へと渡り歩くものになりすまし、各地の情報を集めたのだ。
特に虚無僧、修験者、僧侶は宗教者ということで関所を簡単に通過でき、重宝したようである。
集めた情報は、各地に潜む仲間と協力してリレー形式で伝える。
文書で伝えるときは組織や流派ごとに異なる暗号を用い、敵の手に渡っても情報が漏れないような工夫を施していた。
こうした情報収集は、合戦中はもちろん、合戦が始まる前から行われた。
顔の知られていないものに敵国で商売させ、その土地の事情に通じさせたり、あわよくば敵国の大名や家臣などから信頼を得るようにする。
また、もともと敵国に住んでいた血縁者をたどって情報を得たり、その土地の政治に不満を持つ人たちを味方につけ、彼らから情報を得るのもポピュラーな情報収集法だった。
忍者はなぜ特別な術を使えたのか?
物語の世界の忍者は、屋敷の高い塀を飛び越えたり、ドロンと姿を隠したりと、人間離れした技を使って敵地に忍び込み、情報を盗み出す。
そこに誇張があったとしても現実の忍者が常人離れした身体能力を持ち特別な術を使ったことは確かなことである。
彼らがそのような能力を身につけた理由は、忍者の起源は修験山伏にあるからという説が有力である。
修験山伏は、険しい山中で修行し、霊験を得ようとする人たちのこと。
彼らは、厳しい修行によって、常人よりはるかに速く歩けたり、素早い身のこなしを身につけていた。
山伏の主な仕事は、呪術などを使って加持祈祷をしたり、信者に代わって山に登り御礼をもらいにいくことなど。
そして甲賀の山伏は御礼をもらいにいくのと同時に薬売りも生業の一つとしていた。
忍者は火薬や毒薬など様々な薬の扱いにも長けていたが、山で体を鍛え、薬にも詳しかった山伏が戦国時代で忍者となったのは突飛な発想ではないだろう。
また甲賀忍者のいた滋賀県甲賀市甲南町では、忍者屋敷を公開しているが、ここに仕掛けられた回転扉などのカラクリは、忍者が姿を隠すためではなく、本来は秘伝の薬を隠すためのものだったといわれる。
忍者は本当に高く飛び跳ねることができたのか?
忍者修行の有名なエピソードに植物の麻を毎日飛び越すというものがある。
麻は成長が早く、最初は膝丈ぐらいの高さでもおすぐに身長を越えるようになる。
毎日、麻を飛び越す訓練をしていると、やがて身長より高いところでも飛び越えられるようになるということだ。
しかしこれは話を面白くするために作られたエピソード。いくら毎日修行したところで、自分の身長より高く飛び上がることなどまず不可能だ。
ただ忍者が高い塀を越えることができたのは本当だ。代表的なのが、忍び刀を使う方法。
刀を塀に立てかけ、鍔を踏み台代わりにして登ったのだ。
踏み台として使いやすいように、忍び刀は普通の日本刀より反りが少なくなっていた。
仲間と協力して越える方法もある。
「人馬」と呼ばれるもので、一人の肩の上にもう一人が乗る。
この状態で塀に向かって走り、頃合いを見て上に乗った忍者がジャンプし、塀を飛び越えるのだ。
忍者が厳しい訓練のすえ、高い塀を飛び越えられたというのは、誇張ではない。
忍者が伊賀で生まれた理由とは?
人者の流派は、全部で25あるといわれる。中でも有名なのが伊賀忍者だ。
有名な服部半蔵や百地三太夫は伊賀忍者だし、俳句の松尾芭蕉も実は伊賀忍者という説がある。
なぜ忍者が伊賀で生まれたかというと、一つには四方を山に囲まれている土地柄がある。
農作業をはじめ、ちょっと出かけるにも山を登り降りしなければならない。
忍者に必要な強い足腰がしぜんに鍛えられる環境であった。
その一方で土地が貧しいため、村は常に困窮していた。
やがて近隣の村に押し入り食料や金品を奪っては暮らしの助けとするようになる。
そこから忍び込みや窃盗、情報収集といった技術が磨かれていった。
近くの吉野や高野山、柳生といった修験道や真言密教、武術を得意とする土地があったことも技術を磨く上で大いに役立ったようだ。
さらに忘れてはいけないことが、京都に近いということだ。
戦国時代の政治の中心は京都だった。
そこから9里(約35キロ)しか離れていない伊賀の忍者たちは、武将や公家たちにとって便利な存在だった。
また、京都に近いことから、伊賀は都を追われた公家たちの逃げ込み場所にもなっていた。
識字率の低かった当時、彼らから読み書きを学ぶことができたことも他の忍者たちと一線を画することになった。
こうした諸々の事情が重なり、伊賀忍者は数ある流派の中でも最も大きな存在となったのだ。
忍者は本当にドロンと姿を消せたのか?
忍者の使う忍術で有名なのもに「火遁の術」がある。
巻物を口に咥え、指で印を切ると、煙がもくもくとたちのぼり、気がつくと忍者の姿が消えているといった具合だ。
もちろんこれはフィクションで現実の忍者はそんなことはできなかった。
ただ、敵から逃げるとき、煙を使うことはあったようだ。
火薬を使って煙を出し、それに乗じて逃げる。
姿を隠すほどの煙は出せないものの、爆発や煙で敵を驚かせたり注意をそちらに向かせ、その隙をつくぐらいのことはしたようだ。
火薬がまだ珍しい時代だったからこそ、効果のある戦術だった。
もう一つ忍者を扱った物語に欠かせないのが煙玉である。
煙玉を地面にぶつけると煙がもくもくと立ちのぼり、それに乗じて逃げるというものだが、これも後世の創作である。
戦国時代の火薬は導火線から火をつけて爆発させるしかなかった。
地面にぶつけた衝撃で爆発させる類のものは存在しなかった。つまり煙玉自体がフィクションで、当時の忍者はこのような便利アイテムを持っていなかったのだ。
忍者は本当にスイスイと水上を歩けたのか?
ドラマなどで忍者が水の上を歩くシーンを見かける。
足に「水蜘蛛」と呼ばれる忍具を履きこれを浮き輪のように使って水の上をスイスイ歩くのだ。
水蜘蛛は古い忍者の秘伝書にも登場し、いかにも忍者が本当に水の上を歩けたように書かれているが、実際に水蜘蛛で水の上を歩くこのは不可能だった。
これは実験で証明されており、体重50キロの人間を浮かせるには、少なくとも直径50センチ、厚さ20センチの円筒形でなければならない。
秘伝書に紹介されている道具とは似ても似つかなく、隠密行動を旨とする忍者がこんな大掛かりな道具を持って歩けるはずがない。
しかもその大きさでも浮くことはできても歩くことはできない。
片足を上げたとたん浮力がなくなり沈んでしまう。
歩くためにはさらに大掛かりなものにしなければならない。
つまり忍者が水蜘蛛を使って水の上を歩いたという話は真っ赤嘘だ。
忍者を権威づけるため、中国の古い兵法書などを参考に創った話とみられている。
ただし、川や湖をわたる忍具は存在したようで、代表的なのは「かめ筏(いかだ)」と呼ばれるもの。
民家などにあるかめを浮き輪がわりにし、これを竹などで結びつけて筏を作る。
当時のかめは直径が50センチから1メートルほどもあったようで、いくつか組み合わせれば十分な浮力を得られt。
猿飛佐助は実在の人物だったのか?
猿飛佐助は明治末に発表された「玉田玉秀斎口演 真田之勇士・猿飛佐助」という講談本に登場する架空のキャラクターだ。
講談本は武士や俠客を扱うのが大半だったがネタが尽きてきた。
そこで生み出されたのが猿飛佐助を主人公とする忍者物だったのだ。
猿飛佐助の猿飛は、玉秀斎の妻の実家、愛媛県の霊山・石鎚山の麓にある「猿飛橋」から取ったもの。
そこには講談本の新しいヒーローを西遊記に登場する孫悟空のようなキャラクターにしたいという思惑があった。
佐助という名は、ゴロが良いという理由で決まったようだ。
この講談本は初め話題にならなかったが、大正初年に爆発的にヒットする。
さまざまな忍術を使って敵を倒す様はもちろん明るく快活な人物像が斬新なヒーローとしてウケたようである。
以後、さまざまな小説やテレビ、漫画などで扱われあたかも実在の人物のような活躍をすることになった。
まとめ
いかがでした?
特に京都に近いから伊賀忍者が最も大きい組織というところが個人的に納得しました。
忍法は案の定誇張があったということですが、しっかり情報収集をおこなって戦場で役に立っていたということですね。
それでは、今後も戦国時代の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
ここが一番おもしろい!戦国時代の舞台裏