織田信長の紀伊平定
織田信長の紀伊平定
1577年2月
織田信長と鈴木重秀
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貝塚の戦い(かいづかのたたかい)
1577年2月17日
大阪府貝塚市中
孝子峠の戦い(きょうしとうげのたたかい)
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
中野城の戦い(なかのじょうのたたかい)
1577年2月22日 ~ 28日
和歌山県和歌山市中野
孝子峠を突破した織田勢は、紀伊に侵入して雑賀衆の拠る紀伊中野城を包囲した。
弥勒寺山城に本陣をおいた雑賀衆は、和泉との国境に近いこの中野城を前線基地とし周囲に城砦を築いて織田勢を迎え撃とうとしていたのである。
水運の便に恵まれた中野城は、戦略物資の輸送には適していたが、2月22日に織田勢の大軍の前に降伏した。
中野城を奪取した織田勢が、ここを前線基地として雑賀の本陣の雑賀城に迫ることになる。
平井城の戦い(ひらいじょうのたたかい)
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
雑賀川の戦い(さいかがわのたたかい)
1577年3月2日 ~ 15日
和歌山県和歌山市小雑賀一帯
雑賀の戦い(さいかのたたかい)
1577年7月
和歌山県和歌山市一帯
天正5年(1577年)3月15日に織田信長と雑賀衆は和睦した。
しかし、雑賀衆が一方的に敗れたわけではない。
そのため織田勢が退陣したあと、鈴木重秀らは同じ雑賀衆でも信長に味方した雑賀三緘(みかわり)を筆頭とした三緘衆を攻撃し始めたのである。
三緘衆は雑賀五郷に含まれていたが、東にあった根来衆の影響が大きいため海側の雑賀衆とは別派閥と言える。
この報せを受けた信長は、軍勢を再び紀伊に送るが雑賀を平定することはできなかった。
こののちも重秀を中心とする雑賀衆は本願寺と通じて、信長に抗戦を続けることになるのである。
この合戦に登場する武将
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
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織田信雄 (おだのぶかつ)
信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。
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織田信孝 (おだのぶたか)
信長の三男。伊勢の豪族・神戸具盛の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉に対抗するが敗れ、秀吉の命により自害させられた。
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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筒井順慶 (つついじゅんけい)
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
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蜂屋頼隆 (はちやよりたか)
織田家臣。黒母衣衆の1人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。
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鈴木重秀 (すずきしげひで)
紀伊の豪族。佐大夫重意の子。通称「雑賀孫市」。雑賀の鉄砲衆を率いて石山本願寺に入り、織田信長の軍を苦しめた。石山開城後は豊臣秀吉に仕えたという。
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佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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荒木村重 (あらきむらしげ)
池田家臣。有岡城主。のちに織田家に仕えて摂津経略を担当するが、本願寺・毛利家と結び謀叛を起こして敗れ、逃亡。茶人となり、利休七哲の1人となった。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。