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金上盛備(かながみもりはる)は何をした人?蘆名の執権【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、蘆名家臣・金上盛備(かながみもりはる)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
金上盛備の生まれ
大永7年(1527年)、金上氏14代当主・金上盛信の子として生まれます。
金上氏は蘆名氏の庶流です。
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蘆名家は伊達家に並ぶ陸奥の有力大名で、金上氏は蘆名家の有力な重臣だったんですね。
会津への侵入を防ぐために国境を越えた越後国蒲原郡・津川城を拠点としていました。
上洛し信長に謁見
金上盛備は蘆名家全盛期の蘆名盛氏の時代から蘆名義広まで5人の当主に仕えています。
天正6年(1578年 金上盛備が51歳の頃)、上杉謙信の死後に起こった御館の乱の際には、上杉景虎方として参戦した蘆名盛氏に従い、蒲原安田城を攻め落としています。
天正8年(1580年 金上盛備が53歳の頃)に最盛期を築いた蘆名盛氏が死去すると蘆名氏は徐々に傾き始めるが、1581年には上洛して織田信長に拝謁し、中央とのパイプ作りに成果を上げています。
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1581年の織田家はというと、本願寺と講和を結び畿内のほぼ全域を手中に収め、織田の天下統一が現実味をおびてき出した頃ですね。
上洛により蘆名盛隆を三浦介(三浦家棟梁)を称することを認めさせ、さらにこのとき彼自身も従五位下・遠江守に叙任されました。
天正9年(1581年 金上盛備が54歳の頃)に越後で発生した新発田重家の乱においても、盛隆に従い重家方として上杉景勝軍と戦っています。
伊達家か佐竹家か?揺れる蘆名家
若い蘆名盛隆をよく支えたが盛隆は家臣に暗殺されてしまいます。
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蘆名盛隆の父・二階堂盛義と母・伊達阿南についてまとめています。
天正14年(1586年 金上盛備が59歳の頃)、盛隆の遺児・蘆名亀王丸も夭折してしまい、蘆名氏は後継者不在の事態に陥ってしまいました。
次の当主を巡って当時の大勢力である伊達氏・佐竹氏のどちらから養嗣子を迎えるかをめぐって蘆名家中が紛糾します。
盛備は盛氏時代からの功臣という実績を以て、佐竹氏から佐竹義重の次男・結城義広(白河義広・後の蘆名義広)を迎え伊達政宗に対抗する案を強行しました。
というのも、蘆名と伊達は古くからの縁戚関係でしたが、新当主・伊達政宗の急激な拡大路線を盛備は警戒したためです。
大内定綱、猪苗代盛国や蘆名四天(佐瀬以外)の反対を押し切り、義広を新当主とすることに成功しました。
しかし、義広と共に入ってきた大縄・刎石・平井などの旧佐竹家臣たちと、伊達を推していた譜代家臣たちの間を取り持つことが出来ず、そこを伊達政宗に突かれて蘆名家臣団の亀裂はどんどん深まっていきます。
天正17年6月5日、その混乱の中で伊達政宗が侵攻してくると蘆名氏最後の戦いとなった摺上原の戦いで、富田隆実が勝手に戦線離脱するなど蘆名軍は自壊。
盛備は伊達軍の片倉景綱隊に突撃し戦死した。享年63。
盛備はこの戦いで敗色濃厚と判断し、義広を説得して退却させ、自らは殿として伊達軍の兵を次々と叩き潰したのち片倉景綱と一騎打ちを敢行。激戦を繰り広げます。
そして景綱に対しては「名のある武将と戦って死ねる」ことに感謝し、彦姫に対して蘆名を護れなかったことを心中で侘びながら戦死しました。
蘆名の執権
金上盛備は、その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と呼ばれました。
ゲーム信長の野望シリーズでも、内政・外政のパラメータが突出していますね。
その実力は蘆名四天(平田・佐瀬・松本・富田)を上回ったと言われています。
舌戦の際には相手を完膚なきまで叩きのめすところがあったようです。
まとめ
いかがでしたか?
蘆名家の5人の当主に仕え、蘆名四天を差し置いて「蘆名の執権」と呼ばれた金上盛備。
佐竹家から養子を迎える際に強行し家中の分裂を招くも、最後まで蘆名家に忠義をつくし戦いました。
政治能力が高いだけでなく忠誠心も厚いこんな武将がいたんですね。今まで知りませんでした。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!