織田信長の尾張統一
織田信長の尾張統一
1547年11月
織田信長と織田信勝
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古渡城の戦い(ふるわたりじょうのたたかい)
1547年11月20日
愛知県名古屋市中区橘
萱津の戦い(かやづのたたかい)
1552年8月16日
愛知県海部郡甚目寺町
清須城の戦い(きよすじょうのたたかい)
1555年4月20日
愛知県清須市一場
稲生の戦い(いのうのたたかい)
1556年8月24日
愛知県名古屋市西区塚町一帯
浮野の戦い(うきののたたかい)
1558年5月28日
愛知県一宮市千秋町浮野
織田信長は尾張下四郡守護代の織田信友を討ち、稲生の戦いで弟の信勝との内訌に勝利し、さらに尾張国守護の斯波義銀をも追放し、尾張一国の平定に乗り出す。
しかし尾張上四郡を支配していた嫡流岩倉織田氏の守護代・織田信安はいまだ健在であった。
信安は信長の父の信秀の妹を妻とし、若年の頃の信長とも私的に交流があった人物であるが、長良川の戦いの際には美濃の斎藤義龍と手を組み信長を攻撃するなど、この当時は敵対関係にあった。
ところが、信安は長子の信賢を遠ざけ、次子の信家を跡継ぎとしようと画策したことにより信賢と対立し、信賢により追放されていた。
岩倉城に拠る尾張上四郡守護代となった織田信賢は、斎藤義龍と組んで信長に対抗していく。
岩倉織田氏の内紛を見た信長は信賢との戦いに備え、父の信秀死後は独立勢力化していた犬山城主の織田信清に、自身の姉の犬山殿を嫁がせて、信清を味方に組み入れた。
永禄元年(1558年)5月、清須城の信長を討つために出陣してきた信賢の3000の軍勢を、信長の2000余の軍勢は尾張浮野で迎え撃つ。
激戦であったが信長の元に従兄弟にあたる犬山城主の織田信清の援軍1000が到着すると、形勢は一気に傾き、信長軍が勝利した。
この戦いで信長方は1250余を討ち取ったという。
敗れた信賢は、岩倉城に敗走した。
この浮野の戦いにおいて信賢勢として活躍した林弥七郎は弓の名手であり、信長方の鉄砲の名手である橋本一巴と一騎打ちを演じたとされる。
両者痛み分けとなり林は負傷した。
撤退の際に追い打ちをかけてきた佐脇良之(前田利家の弟)の右肘を林が斬って負傷させたものの、最後は佐脇に討ち取られたと伝わる。
その他、岩倉勢には後に織田・豊臣政権下で活躍する山内一豊の父の山内盛豊や、同じく堀尾吉晴の父の堀尾泰晴も参戦している。
岩倉城の戦い(いわくらじょうのたたかい)
1558年6月 ~ 8月
愛知県岩倉市下本町城址
この合戦に登場する武将
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織田信秀 (おだのぶひで)
尾張の戦国大名。「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、尾張統一を目指して近隣の今川家、斎藤家らと抗争を続けたが、志半ばにして流行病にかかり、急死した。
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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織田信光 (おだのぶみつ)
信定の子。武勇に優れ、今川家との小豆坂合戦では殿軍を務めた。甥・信長の清洲城攻略戦で活躍し、那古野城主となるが、その数カ月後に家臣に謀殺された。
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織田信友 (おだのぶとも)
尾張斯波家臣。尾張下4郡の守護代。名は広信とも。清洲城主を務めた。主君である義統を殺したため、織田信長の命を受けた織田信光に攻められ、自害した。
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織田信勝 (おだのぶかつ)
信秀の次男。名は信行とも。うつけと呼ばれた兄・信長に対し、利発で家中の評判が良かった。林秀貞らに擁立されて家督を争うが、清洲城で信長に殺された。
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柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。
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林秀貞 (はやしひでさだ)
織田家臣。筆頭家老。主家の家督争いでは信勝を擁立して敗れるが、許される。その後は目立つ働きがなく、のちに信勝擁立の件を蒸し返され、追放された。
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織田信清 (おだのぶきよ)
織田家臣。犬山城主。織田信秀の娘を娶り一時期織田信長に協力するも、やがて敵対する。信長に犬山城を落とされ、甲斐へと逃亡したといわれる。