武将名鑑【信長の野望 新生】
池田恒興(いけだつねおき)
池田恒興(いけだつねおき)
池田恒興 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
73 (297 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
72 (322 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
63 (744 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
63 (644 位) | ||||
合計 | 271 (307 位)2201人中 |
池田恒興 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 勝入 信輝 | ||||
仮名・通称 | 勝三郎 | ||||
法号・戒名 | 護国院雄岳宗英大禅定門 | ||||
父 | 池田恒利 | ||||
母 | 養徳院(織田信秀の側室) | ||||
配偶者・正室 | 善応院 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1536年 | 織田家臣。信長の乳兄弟。姉川合戦などで活躍した。本能寺の変後は、織田家四宿老の1人となる。羽柴秀吉に味方して小牧長久手の合戦に出陣し、戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1584年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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一所懸命 | 同一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇 | ||||||||||
乾坤 | 合戦で積極的に退き口を襲撃 | ||||||||||
城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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威圧 | 敵部隊の攻撃低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 18 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 25 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 35 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 47 |
池田恒興が登場する合戦
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大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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花隈城の戦い [荒木村重の謀反]
1580年3月2日 ~ 7月2日
兵庫県神戸市中央区北長狭通
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長浜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。 -
岐阜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月20日 ~ 29日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、羽柴秀吉と対立する信孝は三法師を岐阜城から離さず、12月2日に1万人余の兵を擁して岐阜城で挙兵した。
これを謀反の口実として、秀吉は2万余の軍勢でただちに出陣。
丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。信孝と結ぶ越前北庄城の柴田勝家は積雪のため援軍を送ることができないまま、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を包囲した。
依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は伊勢の滝川一益の勧めに従い、12月20日に三法師を秀吉に渡すとや母の坂氏や乳母・娘らを人質として秀吉に降伏した。
秀吉は12月29日に包囲を解く。この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可・稲葉一鉄や与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝・斎藤利堯も秀吉側に寝返った。
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立花山の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年1月8日 ~ 1月12日
岐阜県美濃市立花
天正11年(1583年)正月、神戸信孝の命により、美濃郡上八幡城主の遠藤慶隆と美濃木越城主の遠藤胤基ら300余騎は、羽柴秀吉方についた靴尾山城主・佐藤秀方の須原砦・洞戸砦を攻略すると、長良川を挟んで蛇尾山と対峙する立花山(現美濃市)に布陣した。
1月8日、佐藤秀方から後詰を要請された秀吉は美濃金山城主の森長可に池田恒興・一柳直末らをつけて送り込み、立花山を攻囲した。
これに対し遠藤慶隆は信孝に救援を求める密使を送ると、信孝は守備の功労を誉め援軍派遣を約束したが援軍は来なかった。
2月には、糧道を絶たれ馬具の熊皮まで焼いて食すようになり、木尾・三日市(ともに現郡上市美並町)の住人が酒樽に米を詰め酒と称して送り、山道から陣中に運び入れて一時の急を救ったものの、攻囲はますます厳しくなり遠藤方は決死の突撃を覚悟した。
同年4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぼされ、信孝が秀吉に降伏すると、佐藤秀方より軍使が来て信孝の敗北が知らされ、開城勧告がなされた。遠藤慶隆は石神兵庫・遠藤利右衛門を人質として送り、母野(現郡上市美並町)で両軍の和議が成り遠藤氏は秀吉の配下に入った。
佐藤秀方は、この戦を機に秀吉の武将となり、武儀郡の大半を領有(石高2万5,000石といわれる)した。
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犬山城の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年3月13日
愛知県犬山市犬山
犬山城天守閣からの眺め
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羽黒の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年3月17日
愛知県犬山市羽黒
徳川家康が尾張小牧山城に本陣をおくと、羽柴秀吉方の池田恒興とその女婿・森長可が小牧山城の攻撃を図る。
しかしこの動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半に家康配下の松平家忠・酒井忠次・奥平信昌・榊原康政らは5000余の兵を率いてひそかに打って出て、池田勢と合流すべく尾張羽黒に滞陣していた森勢の陣を急襲する。
翌3月17日早朝、酒井勢の奇襲により森勢は300余が討ち取られたという。
恒興は3万余の軍勢を率いて駆けつけたが、徳川勢は池田勢との衝突を避け、小牧山城に退いた。
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長久手の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年4月9日
愛知県愛知郡長久手町
長久手古戦場
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