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白鳥長久(しらとりながひさ)は何をした人?最上義光と並ぶ豪傑【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは出羽の国人領主・白鳥十郎長久(しらとり じゅうろう ながひさ)です。
最上義光とならんで「出羽の双傑」と謳われた豪傑です。
一体何をした人なんでしょうか?
それでは見ていきましょう!
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白鳥長久の生まれ
白鳥長久は、山形県村山市最上川左岸を拠点とした国人領主である白鳥義久の子として生まれます。
誕生年は不明ですが、ゲーム「信長の野望」では1527年と設定されており、父・白鳥義久の年齢から考えておおよそ合っていると思われます。
白鳥氏について
白鳥氏についての最初の記録は、天文の乱で伊達稙宗(伊達政宗の曾祖父)が「白鳥殿」に宛てた書状です。
これは時期的に父・白鳥義久の時代で、内容は伊達稙宗が「白鳥殿」に丁寧に対応しつつも、味方に引き込もうとする必死な内容でした。
この「白鳥殿」は最上義守(最上義光の父)の動向をも左右し得る存在で、伊達稙宗としては味方にするメリットがあったようです。
天文の乱とは
天文11年(1542年)から天文17年(1548年)までの6年間で、伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱です。
長い内乱で伊達家は衰弱し、伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏・相馬氏・最上氏が独立していきました。
また、『蜷川家文書』には蜷川氏に教えを乞う白鳥や、『言継卿記』の永禄元年(1558年)3月28日には上洛して飛鳥井家で蹴鞠をする白鳥が登場します。
白鳥氏は長久の父・義久時代から奥羽のみならず京都にも顔が利く出羽の有力な国人衆で、ほぼ戦国期に急速に頭角を現す存在だったようです。
『最上記』には「城取十郎(長久)」と記載されているため、読みは「しらとり」ではなく「しろとり」だったと思われます。
天文の乱では最上側で戦う
天文11年(1541年 白鳥長久が14歳の頃)、陸奥国守護を務めた伊達氏当主伊達稙宗・晴宗親子が争った天文の乱では、最上義守
天正元年(1573年 白鳥長久が46歳の頃)、羽州探題である最上義守・義光父子同士が家督相続を巡って争った天正最上の乱では、当初は父・義守方に付いて寒河江氏が籠る寒河江城の攻撃に参加しています。 しかし、息子・義光方が局地戦で戦勝を重ねると伊達輝宗に書状を出し、最上義光との和睦を仲介します。 天正5年(1577年 白鳥長久が50歳の頃)、白鳥長久は槙清光を京に上洛させて、時の権力者である織田信長に駿馬・白雲雀を献上します。 最上義光はこういった長久の動きを警戒しており、長久の1か月遅れで信長のもとに志村光安を派遣しました。 会津四家合考では、義光はいかなる手段を用いても長久を葬ることを決意したと記されています。 天正9年(1581年 白鳥長久が54歳の頃)5月9日、白鳥長久が伊達家の文官である遠藤基信に宛てた書状が残っています。 独立した大名と化しつつあった白鳥長久を、『最上記』では討伐すべき対象としています。 長久を討つべく、最上義光が氏家守棟と相談し、まず白鳥長久の娘・日吉姫を義光の嫡男・最上義康に嫁がせた婚礼させ、まず長久との関係を和解します。 天正12年(1584 白鳥長久が57歳の頃)6月。 長久は反対する家臣を押し切って、屈強の家臣を引き連れて初めて山形城へ出向いたところ、書院では護摩祈祷が行われており、控えの間には最上一門が詰めているなどずいぶん物々しい気配でした。
十郎殿(白鳥長久)も日頃は用心深かりけれ共、哀に心細くや思ひけん、泪ぐみて御座けり『最上記』 ずいぶん用心していた長久も、同情のあまり思わず涙ぐみます。
義光公居直る躰にもてなし、床の下に置給ふ太刀を追取、抜打にうち給得ば 義光は座り直すふりをしながら床の下に隠した太刀を取ると、抜き打ちに刃を振りおろして長久を斬殺。 もちろん義光の病は、このための周到な擬態でした。 長久を失った白鳥氏は混乱し、寒河江氏と共に義光と戦うものの攻め滅ぼされ、谷地は最上義光の直轄地となりました。 『最上記』には時期が書かれていないが、『白鳥氏系図』には天正12年(1584年)6月7日卒とあるので、この日が忙殺された日と推測される。 長久の血を浴びたといわれる「血染めの桜」が昭和初期まで山形城内に残っていた他、首塚が今に残る。 元和2年(1616年)、33回忌法要が円福寺16世高岳(弘覚)法印によって営まれ、墓が建立されました。 ゲーム「信長の野望」での白鳥長久は、総合能力値が2200人中約800位と中の上の強さに設定されています。 いかがでしたか? 文武兼ね備えた名将といわれていた白鳥長久 謀将・最上義光に謀殺されてしまいます。 残念ですが、これが弱肉強食の戦国時代ですね。 それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!伊達と最上の仲介をする
長久は和議の仲介者として一定の立場を得て、出羽国内での影響力を高めていきました。信長に使いを出す
これは出羽守を認めさせ、自己の権威の増大と領国の安定化を計りましたが、出羽守を得ることができませんでした。
代々「羽州探題」だった最上家の家系図と、白馬や刀工月山が打った槍十本を贈ったため、信長に「最上出羽守殿」と返事をさせることに成功しました。
伊達氏に大崎義隆上洛の協力を依頼している内容でした。最上義光に謀殺される
※『安中坊系譜』には、寒河江兼広の次女が最上義康妻と記載があります。
最上義光は白鳥長久に「病ますます重く明日をも知れぬ容体のため、後事を託したい」という旨を述べて義光の居城である山形城に招きました。
この時義光は、嫡男・義康が長久の娘を迎える縁で、長久に「家系図を預けたい」とまで述べていたようです。
寝所に導かれた長久が見たのは、ぐったりとやつれた様子の義光でした。
義光は長久を枕元まで招いて後事を託したい旨を述べたあと、「修理太夫(義康)が成人するまでお預けしたい」と一巻の書を差し出しました。
これが最上の家系図と察した長久が押し頂いた、その時。
後に、義光は57万石の大大名になっています。
※「血染めの桜」は明治以降の伝承であるため信憑性は低い
この塔は文化元年(1804年)東林寺28世大圓淳鏡と谷地名主衆中により再建され、現在に至ります。ゲーム「信長の野望」での白鳥長久
全てのパラメーターが並以上といったところです。
信長に通づる動きを見せたところを評価したのか、野心が高く設定されていますね。まとめ