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  • ● 1559年 長尾景虎(上杉謙信)が上洛し将軍・足利義輝に拝謁
  • ● 1570年 越前討伐中の織田軍に浅井長政離反の報が伝わり、全軍撤廃を開始
  • ● 1625年 毛利輝元が死去。享年73歳
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村田吉次(むらたよしつぐ)は何をした人?朱柄が許された猛者!【黒田二十四騎】

村田吉次(むらたよしつぐ)は何をした人?朱柄が許された猛者!【黒田二十四騎】

こんにちは、歴史大好きtakaです。

今回紹介するのは黒田二十四騎のうちの一人・村田兵助吉次(むらたひょうすけよしつぐ)です。

井口弥一之助とも。

一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!

目次[非表示]

黒田家臣。黒田二十四騎の一。宝蔵院流槍術の免許皆伝で武勇に優れ、朱槍を許可された。一方で気性が激しく、気に食わないからと領民を虐殺したりしている。

黒田二十四騎

村田吉次は黒田二十四騎です。

黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。

生まれ

永禄8年(1565年)、井口(いのくち)与次右衛門の四男として播磨で生まれます。幼名は弥一之助。

父・井口与次右衛門は、元々播磨龍野の赤松家の分家で、代々城主を努める家でしたが、戦いを嫌い姫路を越えた隣の御着に移り住み、浪人となりました。

父は帰農し広い田畑や屋敷を持つようになりましたが、子の井口猪之助・井口六太夫・井口甚十郎は姫路の黒田官兵衛に仕え武士となりました。
井口三兄弟は武勇に優れ、留守に守将を任されるほどでした。

井口猪之助は、夜襲を受け勇戦するも、敵前にて腹を切った話が残っています。
他の二人の兄も若年のうちに戦死しています。

その後、年が離れた末っ子である弥一之助は、兄と同様に孝高に仕えます。
この時、父・井口与次右衛門は弥一之助まで官兵衛に仕え武士になることを反対したが、官兵衛はお菓子を与え、「汝は私の元に来なさい。父親の元に居るより、たくさん、いいことがある。将来もいいことばかりだ。悪いことは何も無い。」と爽やかに騙しました。
結局出世したので、当人にとってはいい決定をしたことでしょう。

黒田官兵衛孝高は、御着の小寺政職に仕えており、小寺(及び播磨の豪族)が織田家に巨従するため、同年に官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)を人質として羽柴秀吉に預けます。
羽柴秀吉の居城・長浜城で人質生活を送ることになります。
その際、松寿丸の付き人として井口弥一之助と大野九兵衛の二人が長浜城に同行しました

松寿丸(黒田長政)が1568年生まれなので、弥一之助は3つ上のお兄さんという感じでしょう。

その後、摂津有岡城の荒木村重は謀反を行い、その説得に行った黒田官兵衛は捕らえられます。
説得に行った官兵衛が帰ってこないので、織田信長官兵衛も裏切ったと思い、黒田の人質である松寿丸を処刑するよう秀吉の家臣である竹中半兵衛に命じます。

竹中半兵衛信長の命にこっそり逆らい、別の病死した子供の首を信長に届け、松寿丸を匿います。
この時、弥一之助と大野九兵衛も共に竹中半兵衛の居城である菩提山城に匿われました。

このように弥一之助は人質時代に長政と連れ添っていたため、後年長政と良好な関係が続きます。

※ちなみに竹中半兵衛は病気でこの後すぐ亡くなってしまいます。

元服から戦での活躍

有岡城が信長に落とされて1年後の天正8年(1580年 吉次が15歳の頃)元服して井口兵助と名乗り、英賀城攻めで初陣します

天正12年(1584年 吉次が19歳の頃)の岸和田合戦の際には、敵に忍び寄って相手を殺害し、相手の武具・刀・槍・馬を奪って戻ったという
天正16年(1588年 吉次が23歳の頃)、秀吉の九州征伐の後、豊前国で250石を拝領。
文禄・慶長の役では足軽大頭を務めた。

村田性に変える

慶長5年(1600年)、孝高鍋島直茂の陣営を訪れた際に同行。

鍋島直茂は肥前国、黒田長政は豊前国と九州の北側同士で仲良かったのでしょう。長政により関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋は筑前国とこちらも九州北側ですね。

この際、直茂が家臣の村田隠岐を「今まで一度も傷を負ったことが無い武士」と紹介しました。
それに対して孝高は吉次の兄三人が討死したことに触れ、幸運な村田隠岐にあやかって吉次に村田の姓を頂けるように願い、当人から許されたため、これ以後「村田」の姓を名乗ることとなります。

黒田家が一番目立つ必要があるんじゃ

慶長6年(1601年 吉次が36歳の頃)、黒田氏の筑前入国後に夜須郡2,000石を拝領し、別の黒田二十四騎である桐山信行の組下に置かれます。
慶長9年(1604年 吉次が39歳の頃)の孝高の没後、「出羽守」を称し、大組頭となりました。
元和6年(1620年 吉次が45歳の頃)の大坂城普請で大阪に上りました。
この時、「人並みの普請場を引き受けても仕方がない。一番目立つ場所を引き受けてこそ、黒田長政の忠義を幕府に示せるというものだ」と考え、天守閣の石垣普請を引き受けました。 また石材を運搬する際に吉田重成の組と道でかち合い、諍いを起こしている。

朱具足

朝鮮出兵の際、村田吉次黒田長政に「日本軍の諸将が通れずに困っていた難所の敵を、我の手勢で追払い、黒田家だけでなく、たけも通れるようにした。これは諸人に勝る手柄なので、朱槍を持つ免許(許可)をください。」と頼みました。

しかし、長政の家老は「朱柄は優れた武将にのみ許されものです。1日に7つの首級を取ったものに朱柄は許されると承っております」と答えたので、長政は許可を与えませんでした。

これにごねて、吉次は暇をもらいました。
立花宗茂の陣に行き事情を話すと「朱槍は、1日に首7つを取ったものに与える決まりになっているそうですね。あなたは、たった一度の優れた功績を誇りにして朱槍を無理強いしている。これでは弱い人の言い分に聞こえる。あなたは1日に7つの首を取る自信がないのですか?」と論しました。

その後、立花宗茂黒田長政の元を訪れ「吉次が7つの首級挙げたら、朱槍を持つことを許してやったらどうや↑」と伝えました。

ほどなくして、1日に無事7つの首を挙げ、朱柄を持つことが許されました

村田吉次は、甲冑やその糸、刀の鞘や槍までも全て朱色であったようです。

赤色の武具ってかっこいいですよね。これは憧れますね。

黒田二十四騎で

性格・人柄

宝蔵院流槍術の免許皆伝でした。
また、粗暴な性格で、「気に食わない」という理由で自身の領内の80人余りの首を斬ったり、家臣が暇を乞うと長屋牢に閉じ込めたり、吉次を恐れて逃亡すればその一族の者の首を刎ねたり、罪人を生きたまま斬り刻んだりしたという。

まとめ

いかがでしたか?
最後きつい性格が垣間見えましたが、幼少より、黒田官兵衛長政を支え赤備えを許され武勇に優れた村田吉次

400年も前の人なのに、色々な話を読むとグッと親近感が湧きますよね。

それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!

記事に登場する武将

信長の野望 徹底攻略の管理人 taka

taka

信長の野望シリーズを「革新」の頃の2005年からプレイ。大河ドラマや歴史小説を読みまくる。明治維新・元寇も好きだが戦国時代が一番好き。
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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬