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六角定頼(ろっかくさだより)は何をした人?信長より先に楽市楽座を実施した人【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回紹介するのは近江の戦国大名、六角定頼(ろっかくさだより)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
近江の戦国大名。近江に逃れた将軍・足利義晴を支援した。楽市楽座の創始や、一国一城令の先駆をなす「城割り」を初めて行った人物として著名。
目次[非表示]
近江の戦国大名・六角氏
まず六角定頼よりも、六角氏について説明しよう。
六角氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国(滋賀県)南部を中心に勢力を持った守護大名です。
近江六角氏は、宇多天皇の孫・源雅信を祖とする源氏の一族です。名門です。
六角定頼の生まれ
明応4年(1495年)、六角氏第12代当主である六角高頼の次男として誕生します。
この年、11代将軍となった足利義高は山内就綱という人物を近江守護に任じますが、父・六角高頼は、美濃の斎藤妙純らの支援を受けて山内就綱を京都に追い返します。
そのため、足利義高が次に近江守護に任じられました。
激動の時代だったことでしょう。
明応8年(1499年 六角定頼が4歳の頃)、京都にある相国寺鹿苑院で景徐周鱗の門人として剃髪し仏門に入り「吉侍者」と名乗るも、一旦近江に帰国します。
文亀3年(1503年 六角定頼が8歳の頃)までには再び周鱗の下に戻り、翌年4月に同寺慈照院にて正式に得度、名を光室承亀、号を江月斎と称します。
この時代、長男は家の後継になり、次男はよく仏門に入れられていますね。
次男が優秀であれば、子のいない家に養子となって家を継ぐなんてことがあります。
家督を継いだ兄・氏綱が亡くなり六角家を継ぐ
永正8年(1511年 六角定頼が16歳の頃)父・高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げます。
そのように順調に家が大きくなっていく中で、兄・六角氏綱が細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、永正15年(1518年 六角定頼が23歳の頃)に27歳という若さで亡くなってしまいます。
そのため、六角定頼が還俗して家督を相続することとなりました。この時「吉侍者」から改名し「定頼」と名乗ったとされる。
室町幕府10代将軍・足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げます。
足利義稙は、土岐氏に庇護された歴史があり、父・六角高頼を赦免したという恩がありました。
足利将軍家で活躍する
永正17年(1520年 六角定頼が25歳の頃)、細川高国に合力し細川澄元配下の武将である三好之長を破り(等持院の戦い)、両細川の乱を終結に導きました。
後に足利義稙が細川高国と対立して出奔すると、12代将軍・足利義晴の擁立に細川高国と共に貢献し、天文15年(1546年 六角定頼が51歳の頃)に足利義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなりました。
出世しました。
足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っています(江口の戦い)。
さらに北近江の領主・浅井久政(浅井長政の父)が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置いたり、
伊賀を実質上の支配下に置いたりなど、六角家の全盛期を築き上げます。
後年は、長年にわたり敵対関係にあった天台宗徒と法華宗徒の間を取り持ち、調停に成功するなど外交にも優れた能力を持っていた名君でした。
天文21年(1552年)1月2日に死去。享年58。
六角家は嫡男・六角義賢が継いだ。
近江は運悪く織田信長の上洛の道中に位置するので、この六角義賢は信長に蹴散らされてしまいます。
楽市楽座と城割
織田信長が行ったことで有名な「楽市楽座」は実は六角定頼が先に始めています。
定頼の居城・観音寺城の城下町石寺で楽市楽座を始め、これによって観音寺城下は大いに賑わい一大商業都市にまで成長させました。
また定頼は、大永3年(1523年)日本の文献上では初めて「城割」を施行しています。
城割とは、家臣団を本拠である観音寺城下に住まわせることです。
これは後に一国一城令の元となりました。
子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略も巧みで、京を従え実質的には「天下人」といっても相応しかったでしょう。
ゲーム「信長の野望」での六角定頼の評価
ゲーム「信長の野望 大志」での六角定頼の評価を見てみましょう。
内政能力が2200人中8位、外政能力が2200人中15位、統率・知略も100位以内に入っており、全体的にパラメーターが非常に高く設定されています。
六角定頼はマイナーな武将と思いますが、運営の方は、しっかりその内政・外政能力の高さを評価してくれています。
まとめ
いかがでしたか?
次男であったが名門の六角氏を継ぎ、しっかりと六角家を繁栄に導いた定頼の外政・内政手腕は目を見張るものがあります。
彼がいなければ、信長は楽市楽座の発想がなかったかもしれない。たとえ無から楽市楽座を発想できたとしてもスムーズに運用できていなかったことでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
六角定頼(wikipedia)
六角氏(wikipedia)
六角定頼 楽市楽座や一国一城令など先進的な内政手腕を持つ実質的な天下人
浅井久政(wikipedia)
「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の当主