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黒田一成(くろだかずしげ)は何をした人?摂津有岡城で官兵衛を助けた人(の息子)!【黒田二十四騎】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
稀代の軍師黒田官兵衛孝高(当時 小寺官兵衛)は、摂津有岡城主荒木村重が織田信長から謀反したとき、自ら説得しにいき、その結果説得できず捕まりました。
今回の記事では、その有岡城の土牢の門番だった少年、後の黒田一成に注目していきたいと思います!!
それでは見ていきましょう!
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黒田二十四騎
黒田一成は黒田二十四騎であり、黒田八虎です。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。
そして黒田八虎(くろだはっこ)とは、黒田二十四騎の中からさらに精鋭である親族や重臣を選出した呼称です。
黒田八虎は長政の家臣ですが、父の黒田官兵衛孝高の時代から活躍している古参と親族で固められています。
- 黒田兵庫助利高 : 黒田孝高の実弟・黒田職隆の次男
- 黒田修理亮利則 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の三男
- 黒田図書助直之 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の四男
- 黒田三左衛門一成 : 孝高の養子
- 栗山善助利安
- 井上九郎右衛門之房
- 母里太兵衛友信
- 後藤又兵衛基次
それでは、黒田一成の生涯を見ていきましょう。
生まれ
元亀2年(1571年)、荒木村重の家臣・加藤重徳の次男として摂津国伊丹(現兵庫県伊丹市)に生まれる。幼名は玉松。
1571年に、荒木村重は白井河原の戦いの勝利により、織田信長に性格を気に入られ、三好家から織田家に移っています。
天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を任されることになります。
父・加藤重徳
天正6年(1578年)10月、黒田一成が7歳の頃、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた荒木村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻しました。
本願寺・松永久秀・雑賀衆・毛利・別所と大きな味方がおり、十分勝算がある状態での謀反です。
そして荒木村重を説得しに来た黒田官兵衛(小寺官兵衛)は捕らえられて、じめじめし窮屈で劣悪な土牢に入れられます。
この時牢獄の番人をしていたのが、土豪伊丹氏の一族である黒田一成の父・加藤重徳でした。
黒田一成の父・加藤重徳は、敵である黒田官兵衛に対し優しく接しました。
司馬遼太郎著「播磨灘物語 三 藤の花房」には、黒田一成の父・加藤重徳についてこのような記載があります。
官兵衛が牢獄で囚われ、亡者のように生気を失っている場面にて
[つねづね官兵衛の様子を心にかけてくれている村重の家来加藤又左衛門(重徳)が、この官兵衛の様子をみて、「生きなされよ」と、素朴ないたわり言葉を、念仏のようにくりかえして励ましてくれた。
・・・
加藤又左衛門は、三日に一度は牢格子のむこうに、顔を見せてくれた。
そのつど、洗い清めた着更えの衣服や下着を届けてくれる。]
司馬遼太郎の本はある程度ファンタジーとして読んでいるが、やはり黒田一成を養子に大切に育てていった事実を見ると、黒田一成の父・加藤重徳は瀕死の官兵衛に対し、励まし生きる希望を与えたのだろうと想像します。
ちなみに土牢から救出された時、官兵衛は一人で歩けず、後足萎えとなってしまい、頭皮も皮膚病にかかってしまったので、1年間も投獄は相当な劣悪な環境であったことがわかります。
荒木村重の謀反は織田軍のかつてない猛攻により、1年をかけて落城します。
有岡城(伊丹城)は、小田原城と同じ総構えと言って、街ごと城壁内にあるので、耐久力が凄まじいお城でした。
有岡城の落城の後、加藤重徳が色々と世話をしてくれた恩に報いるため、黒田官兵衛は黒田一成を自分の養子として迎えています。
黒田官兵衛の嫡男である黒田長政は1568年生まれなので、一成は長政の3つ下で、弟のように育てられたようです。
活躍
秀吉の家臣(正確には陪臣)になり、天正12年(1584年 一成が13歳の頃)の和泉国での根来衆・雑賀衆の一揆との岸和田の戦いで初陣する。
その後、四国征伐や九州平定にも出陣、耳川の戦いでは首を2つ討ち取り名をあげる。
黒田家が豊前国入国した時は80石程度だったが、天正18年(1590年 一成が19歳の頃)に2,488石に加増され、後にさらに2,000石を追加されて4,488石となりました。
一成出世しています!
長政がやらかし城井氏攻めの敗走の際には、長政の影武者になることを志願しました。
こういうエピソードを見ると、大切に育てられた恩に報いるため身を捧げるまさに武士という感じです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では長政の先鋒隊をつとめ、金海城に一番乗りをし、晋州城の戦い、白川、西生浦での籠城、稷山の戦いなどでも活躍しました。
慶長5年(1600年 一成が29歳の頃)、関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる木曽川・合渡川の戦いでも敵の首を挙げ、関ヶ原の本戦でも石田三成の重臣の蒲生将監(安藤直重)の首を挙げました。
成人し一番脂が乗っている時期ですね。
黒田家が筑前国入国後は、下座郡三奈木(げざぐんみなぎ)を中心に1万2千石を与えられました。
そして一成の家系は三奈木黒田氏と呼ばれることとなりました。
その後さらに加増され、1万6,205石を領しました。
慶長19年(1614年 一成が43歳の頃)の大坂冬の陣では、黒田忠之に従って出陣し、大坂城の外堀の埋め立てを行って帰国。
2代藩主忠之の時代である寛永14年(1637年 一成が66歳の頃)の島原の乱では重鎮として働き、江戸幕府軍の総大将・松平信綱の軍議に招かれ、意見を求められました。その時、兵糧攻めを具申したと云われています。
藩士達は藩主の黒田忠之の指揮に従わず一成に従ったとされています。
晩年
寛永20年(1643年)、73歳で隠居し剃髪して睡鴎(すいおう)と号します。
隠居後、冨田流剣豪で織部流茶人の土屋宗俊を久留米藩から、宮本武蔵の父の新免無二が、かつて仕えたと考える研究者が多い新免宗貫(伊賀守)を、客将に招いています。
人物像
体格は大兵肥満、身の丈6尺の巨漢であった。
黒田二十四騎を描いた屏風で、各個人を大きく描いたものがありますが、兜含め黒田一成だけでかいため、向きが変わっています。
こんな感じ。
「黒田家臣傳」には「身の長六尺に及び其の力人にすぐれたり。其の人となり寛容にしてせまらず、温柔にしてはげしからず」と記され、温厚な人柄であったようです。
鹿の角を裂くほどの怪力無双の城井鎮房の強弓で、巻藁を射ることが出来たという。
長政より大きな大水牛脇立兜を体格に合わせてかぶっていた。関ヶ原の戦いでは目立ち過ぎて狙撃されたようです。
首級を幾つもあげた記録が残っているが、常に主君である長政を立て武功を誇ることがなかったようです。
歌を詠み、絵も描き、『黒田長政記』を著した。
黒田二十四騎の屏風を見ると黒田一成がおじいちゃんで一番年寄りのように描かれるが、実は一番若いです。
これは、黒田二十四騎で一番若くそして長く生きたため、後年に黒田二十四騎の絵を描く際に存命だったためです。
若く書いたれよ!
島津氏や豊臣秀吉などの兵火に遭った春日神社、美奈宜神社など、領内の神社仏閣の再建や建立に力を注ぎました。
三奈木に建立した清岩寺に、横岳江雲和尚の讃の肖像画が残されています。
主君、黒田長政より大坂夏の陣図屏風、通称『黒田屏風』の制作を命ぜられる。
この屏風は現在、大阪城天守閣所蔵となっており、国の重要文化財に指定されています。
馬印は白の御幣である。
余談
荒木村重の没落後、父・重徳と兄・吉成は宇喜多秀家、小西行長の順に仕え、関ヶ原の戦いで行長が敗れ処刑されると浪人の身となっていたが、一成が父兄を黒田家に迎えるよう、主君の長政に願い出て認められたという。
前述の、重徳が長政の父・孝高を地下牢から救出した功もあって、吉成の家系はその後代々藩の中老職に列せられることとなった。
まとめ
いかがでしたか?
昔助けてくれた人の息子を養子にし育て、その子が忠義を持って働いてくれる。
なんかいいですよね。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!