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斯波長秀(しばながひで)は何をした人?返り咲いた10万石大名!【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは織田家臣・斯波長秀(しばながひで)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
斯波長秀は、「毛利(河内守)長秀」「毛利秀頼」や羽柴性を許され「羽柴秀頼」「豊臣秀頼」とも名乗っていました。
秀吉の子の豊臣秀頼とは別人でなのでややこしいです。
斯波長秀の生まれ
『系図概要』によると、天文10年(1541年)に尾張守護・斯波義統の次男として生まれました。
兄は斯波義銀(津川義冬)という人物です。
悲惨な生い立ち
斯波義統は父・斯波義達(斯波長秀の祖父)が失脚したため3歳で尾張の国主となり、その後織田信友(織田広信)に傀儡として扱われます。
『信長公記』によれば、天文22年(1554年 斯波義統が13歳の頃)、織田信友や重臣坂井大膳、河尻左馬丞が織田信長暗殺計画を企てた際に、信長にその計画を密告して自身の助けを求めました。
それに織田広信が激怒し、守備が手薄な時に攻め父・斯波義統は自害することになりました。
その際、川狩りに出ていた斯波長秀の兄・斯波義銀(津川義近)「若君」は那古野の信長の元へ救いを求めると、信長は義銀に二百人扶持を献じて津島神社に住まわせました。
もう一人の義統の子息(おそらく斯波長秀)「幼君」は清洲城に取り残されたが、織田信長の家臣である毛利十郎によって救助・保護され、那古野へ送り届けられています。
父だけでなく一族30余名もこの時に自害しています。
taka
親族が亡くなり、家がなくなり、兄とは別れ、失意のどん底だったことでしょう。
毛利十郎の養子となる
保護してくれた毛利十郎の養子となり斯波長秀は「毛利長秀」と名乗ります。
毛利十郎は、天文16年に稲葉山城攻めで戦死した毛利敦元の子。桶狭間の戦いの前哨戦で、前田利家らと共に敵の首級を上げて信長に見せて来て、打ち棄ての方針を説明されています。
※中国地方の毛利とは関係ありません。
その後斯波長秀は毛利十郎と行動を共にします。
信長家臣時代
永禄3年(1560年 斯波長秀が19歳の頃)、毛利十郎と斯波長秀は桶狭間の戦いに参加して戦功をあげました。
『信長公記』には、毛利新介が今川義元の首級を上げることができたのは、先年に清洲城で守護が攻め殺されたときに毛利十郎が幼君を1人保護して助けた冥加のおかげだ、と噂されたという話があるようです。
この頃に、織田信長の赤母衣衆に抜擢され馬廻衆になりました。
馬廻衆は武芸に秀でたものが集められたエリート集団です。
特に信長は競われるために黒母衣衆と赤母衣衆の二つがあり、黒母衣衆と赤母衣衆の筆頭には、それぞれ川尻与兵衛秀降、前田又左衛門利家が務め、それぞれの母衣衆は10名程度の構成となっています。
taka
斯波長秀は武勇があったのですね!
永禄12年(1569年 斯波長秀が28歳の頃)の伊勢大河内城攻めに従軍します。
この際の身分は尺際廻番衆。
尺際廻番衆とは、旗本衆です。主に本陣の守備や限定的な普請を任されます。
元亀元年(1570年 斯波長秀が29歳の頃)、石山本願寺勢との野田城・福島城の戦いに従軍。
天満の森での戦いの際、金松又四郎(兼松修理亮正吉か) と共に敵将・長末新七郎を突き伏せ戦功を挙げました。
この時兼松正吉と協力して長末新七郎を討ったが、長秀は又四郎に首を取らせようし、又四郎もこれは長秀の功で自分は手伝っただけだと長秀に首を取るように勧めます。
そうこうしているうち混乱の中、機を失いどちらも首を取ることが出来なかったという。
残念!
将軍・足利義昭と信長の対立により松永久秀の1度目の謀反。
天正元年(1573年 斯波長秀が32歳の頃)に降伏した後に差し出された多聞山城の受け取り役を、佐久間信盛・福富秀勝と務めて、以後の城番も一時期務めています。
信忠に従う
天正2年(1574年 斯波長秀が33歳の頃)尾張・美濃衆で軍団を編成した織田信忠(信長の嫡男)の配下となり、以後は信忠に従います。
天正3年(1575年 斯波長秀が34歳の頃)信忠による岩村城攻めに参加します。
河尻秀隆、浅野左近、猿荻甚太郎と共に夜襲を仕掛けてきた武田軍を撃破しました。
織田家中でも武功をもって知られた武将であり、名将言行録には信長が長篠の戦いの直前に家康に加勢を送るべきかを、武辺の誉れある秀頼と分別の厚い佐久間信盛の両人を召して相談したという逸話が収録されています。
天正6年(1578年 斯波長秀が38歳の頃)、斎藤利治が越中国で上杉軍に勝利した際(月岡野の戦い)には、森長可、坂井越中守、佐藤秀方等を添えられ援軍の大将として派遣されています。
天正9年(1581年 斯波長秀が41歳の頃)、毛利良勝と共に羽柴秀吉から中国攻めの状況について報告を受けています。
天正10年(1582年 斯波長秀が42歳の頃)2月からの甲州征伐にも従軍。信濃大島城在番。
伊那郡高遠城攻めで功を挙げたが、この戦いで養子の安藤源五が討死しています。
武田氏の滅亡後の論功行賞で、信長からこの信濃伊那郡を与えられ、信濃国衆・坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城主になりました。
taka
やっと城主になりましたね。
武田氏の滅亡後、信長から坂西氏の遺城である南信濃の高遠城主に任命されます。
甲州征伐の際に高遠城はほぼ壊滅していたので、実際は信濃飯田城に居たという感じでしょうか。
期間が短く長秀の伊那統治に関する史料は少ないが、伊那の安養寺・文永寺に狼藉を働いた事件を起こし、また信長の命で信濃松尾城主小笠原信嶺の暗殺を試みたとされています。
そして本能寺の変が勃発し、信長が横死すると武田氏の旧臣などによる反乱の恐れから所領を捨てて尾張に逃亡し、高遠城は下条頼安により掌握されます。
taka
城主となりこれから!という時に、残念です。
以後は羽柴秀吉に家臣として仕えます。
秀吉に従う
天正12年(1584年 斯波長秀が44歳の頃)の小牧・長久手の戦いに参加。
3月には織田信雄家臣の八神城主・毛利広盛を羽柴陣営へと引き入れています。
また木曽義昌の重臣・山村良勝を秀吉に仲介し、義昌の寝返りにも貢献しました。
天正13年(1585年 斯波長秀が45歳の頃)10月、侍従に叙任されて昇殿。これに伴い豊臣姓と羽柴の名乗りを下賜されました。
天正15年(1587年 斯波長秀が47歳の頃)、九州平定に従軍。
帰還後の秀吉の参内に随行して太刀代を献じました。
天正16年(1588年 斯波長秀が48歳の頃)、後陽成天皇の聚楽第行幸にあたり関白・秀吉の牛車に供奉して、起請文の23名の大名に名を連ねます。
7月29日、当時上洛中であった毛利輝元の訪問を受け、御太刀一腰・御馬代千疋を進上されています。
これは前田利長、上杉景勝、細川忠興、池田輝政、織田信包に対する進物と同内容です。
taka
並々ならぬメンツと同内容の進物とは、当時斯波長秀に対する評価が高いことがわかります。
7月31日の豊臣秀長邸、8月2日の豊臣秀次邸への秀吉の御成の際はいずれも尼子宮内少輔と共に関白御膳役を務めました。
8月22日、北条氏規が聚楽第に出仕した際には岩倉侍従毛利河内守として列席しており、当時尾張国岩倉城主であったと見られています。
故郷の尾張城主となりましたね!
この頃から柴河内侍従豊臣秀頼と名乗るようになりました。
晩年
天正17年(1589年 斯波長秀が49歳の頃)、大仏殿建立に使用される木曽の木材調達に携わっており、秀吉に労をねぎらわれています。
天正18年(1590年 斯波長秀が50歳の頃)、前田利家の組に属して小田原の役に参陣して軍功を挙げたため、再び伊那郡・信濃飯田城主として返り咲きました。
知行は初めは7万石で、太閤検地後に10万石に加増されました。
天正19年(1591年 斯波長秀が51歳の頃)5月、足利氏姫の使者が上方から帰還する際には領内を確かに送り届けることと、森忠政と共に諏訪郡での賄いを指示されています。
9月23日、秀吉が御はなしの衆の番体制を定めた文書に名を連ねています。
同年、松本城主・石川数正と所領争いを起こし、秀吉の裁定により小野盆地が南小野・北小野に分けられた。
それに伴い小野神社・矢彦神社も小野神社が北、矢彦神社が南に分割されることとなりました。
文禄元年(1592年 斯波長秀が52歳の頃)からの文禄の役では肥前名護屋城の普請に加わり、在陣するものの、渡海はしませんでした。
名護屋城に向かう道中の豊前国小倉での宿取りをきっかけに佐竹氏との間に遺恨が生まれ、これを解決するために佐竹義宣と直談判しようと少人数で宿所を訪れたところ、佐竹家臣衆に腕をつかまれ制止された上、地面に突き倒されるという狼藉を働かれました。
挙句の果てに馬印を踏みつけられ、原因となった家臣が斬られたため、這う這うの体で退いたという。
この時、仙石秀久や真田昌幸をはじめとした信濃国中の大名らが秀頼に同心して報復を加えようとしたというが、結局両陣営ともが自重したためにそれ以上の抗争には発展しませんでした。
文禄2年(1593年 斯波長秀が53歳の頃)5月23日、秀吉が名護屋城内で明の使者と対面した際には京極高次と共に配膳役を務めました。
文禄2年(1593年)死去。
遺領10万石の内の1万石だけが長男の毛利秀秋に与えられ、大部分は秀頼の娘婿の京極高知(淀殿の従弟にあたる)が継承しました。
確たる理由は不明だが、高知の姉の京極竜子(たつこ)が秀吉の側室として寵愛を受けていたことと関わりがあるかも知れない。
長男の毛利秀秋は1600年、関ヶ原の戦いで西軍につき伏見城の戦いに加わったため改易となりました。
その後は豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に仕え1615年、大坂夏の陣で戦死しました。
まとめ
いかがでしたか?
幼い時に一族が亡くなるものの、信長・信忠・秀吉の家臣として武功を上げ続け、10万石の大名となりました。
信長の野望では下の上くらいの能力値ですが、もうちょっと上げてもいいんじゃないでしょうか。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!