武将名鑑【信長の野望 新生】
六角義賢(ろっかくよしかた)
六角義賢(ろっかくよしかた)
六角義賢 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
55 (1087 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
66 (536 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
56 (1157 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
38 (1859 位) | ||||
合計 | 215 (1162 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1521年 | 近江の戦国大名。定頼の子。江南に勢力を伸ばす。三好家に京を追われた足利将軍家を保護し、仲裁に奔走した。のち織田信長の上洛軍に敗れ、所領を失った。 | |||||||||
死亡年 | 1598年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 26 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 33 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 40 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 50 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 62 |
六角義賢が登場する合戦
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中尾城の戦い [三好長慶と細川晴元]
1550年11月21日
京都府京都市左京区浄土寺大山町
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志賀の戦い [三好長慶と細川晴元]
1551年2月7日 ~ 26日
滋賀県大津市滋賀里
-
佐和山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1552年9月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城桝形虎口
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地頭山の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1553年11月
滋賀県米原市寺倉
-
白川口の戦い [三好長慶と細川晴元]
1558年6月9日
京都府京都市左京区白川
-
佐和山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1559年5月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城入口 龍潭寺山門
北近江半国守護京極家の被官であった浅井氏は、浅井亮政の代に京極家の御家騒動を発端とした衰退に乗じて下克上を成し遂げ、越前朝倉家の助けを得て戦国大名として名を挙げた。
しかし、子の久政の代には南近江の六角氏に帰順するまでに衰退していた。
永禄2年(1559年)正月に元服した久政の子・賢政は、父の久政を隠居させると、六角義賢に反旗を翻す。
百々氏は、位置的に南北近江の両勢力の侵食を受けやすいため、その時々に京極氏・六角氏・浅井氏など大勢力に属してきたが、この時百々内蔵助盛実は浅井氏に属しており、賢政は内蔵助に佐和山城代を命じた。
5月、六角義賢は伴中務少輔に佐和山城への攻撃を命じたが、佐和山城代となった百々内蔵助が撃退した。
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肥田城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1559年9月19日
滋賀県彦根市肥田町
六角義賢(承禎)に反旗を翻した浅井長政が、六角領との国境周辺の国衆を誘降しはじめると、長く六角氏の配下にあった肥田城主の高野瀬秀隆も義賢から離反して長政につく。
宇曽川をへだてて隣接する肥田城は北国街道に接するため、この城が浅井方になると六角勢は江北への道を封じられてしまう。
永禄2年(1559年)9月、高野瀬秀隆の寝返りに激怒した六角義賢は子の義治とともに大軍を率いて肥田城に押し寄せると、城の周囲に堤を築いて水攻めにした。
この時の六角軍の総勢は2万5000人で、総大将は六角義賢、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔らが参陣していた。
しかし9月19日、堤が決壊したため城攻めは失敗に終わった。
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野良田の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1560年8月
滋賀県彦根市野良田町周辺
六角義賢
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太尾山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1561年7月1日
滋賀県米原市米原
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勝軍地蔵山城の戦い [三好長慶と細川晴元]
1561年7月28日 ~ 11月24日
京都府京都市左京区北白川清沢口町
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観音寺騒動 [京極氏・浅井氏と六角氏]
1563年10月7日
滋賀県蒲生郡安土町石寺
小谷城から観音寺城を望む
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野洲川の戦い [織田信長の南近江平定]
1570年6月4日
滋賀県野洲市乙窪一帯
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鯰江城の戦い [織田信長の南近江平定]
1573年4月11日 ~ 9月4日
滋賀県東近江市なまず江町
野洲川の戦いに敗れたあとも、六角承禎・義治父子は織田信長に対する抵抗を続け、元亀4年(1573年)4月、百済寺の僧や一向宗門徒とともに鯰江貞景の居城である近江鯰江城に籠城し、空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施した。
これに対し、信長は4月11日、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀らに鯰江城を攻めさせた。
織田勢は鯰江城の周囲に井元城や中戸城等の城砦を築いて包囲するとともに、六角氏を支援していた湖東三山のひとつ百済寺を焼き討ちする。
六角父子は小谷城の落城をうけて鯰江城から脱出したらしく、信長の命を受けた柴田勝家の再度の侵攻により、9月4日に落城した。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、鯰江貞景の子・定春は豊臣秀吉に仕え大坂に所領を与えられ、大阪市城東区に鯰江の地名を残している。
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石部城の戦い [織田信長の南近江平定]
1573年9月1日 ~ 1574年4月13日
滋賀県湖南市石部中央
鯰江城を脱出した六角承禎・義治父子は、天正元年(1573年)9月1日、甲賀口の家臣・石部家清の居城である近江石部城に拠って、織田信長に対する抵抗を続けた。
甲賀へ抜ける野洲川沿いは隘路であるため、石部城は大軍で攻め込み難いため、敵を足止めしてゲリラ戦で相手を疲弊させ撃退することができた。
信長の命を受けた佐久間信盛・佐久間盛政らは、石部城の周囲11か所に付城を築いて包囲し周辺の一向一揆の村を焼き払い孤立させていった。
承禎・義治父子は、約半年にわたって籠城を続けたが、甲賀武士の中に信長につくものが現れ、翌天正2年(1574年)4月13日、夜陰に乗じて城を脱出すると伊賀に落ちのびていった。
南近江の戦国大名六角氏は滅亡し、信長はようやく近江を平定することになった。
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