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この人誰?

庄元祐

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遠藤基信(えんどうもとのぶ)は何をした人?僕、政治が得意です!伊達輝宗を支えた文官【マイナー武将列伝】

遠藤基信(えんどうもとのぶ)は何をした人?僕、政治が得意です!伊達輝宗を支えた文官【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。

今回紹介するのは伊達家臣・遠藤基信(えんどうもとのぶ)です。

一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!

目次[非表示]

伊達家臣。中野宗時の失脚後、輝宗の厚い信任を受けて宿老となる。政事を担当し、織田信長などとも書簡をやりとりした。輝宗の死後、その墓前で殉死した。

遠藤基信の生まれ

「伊達世臣家譜」巻五によると、遠藤基信は伊達郡八丁目の真言宗豊山派水原西光寺(福島県福島市松川町)住職・金伝坊の子として天文元年(1532年)に生まれました。
藤原姓伊達掛田兵庫頭俊宗の一族で、幼名は六郎。通称は文七郎。山城守とも。

若い頃は諸国を流浪し、修験道に明け暮れていたという。
遠藤基信も各地方の形成視察のとき便宜上修験者の姿をし、岩坊と称したらしく書牘中に岩坊殿と宛名したものがある
『遠藤山城文書』 所収の小早川隆景大友宗麟の書状の宛所にみえる「岩坊」がもし基信の前身であるとすれば、聖護院門跡の坊官として西国でも相当の働きと足跡を残し、諸国の政情等にも精通したこととなります。

「信長の野望 徹底攻略」の管理人Taka

taka

若い頃に旅をしてコネクションを作ったことが、後年での外交に大いに役立ったわけですね。

その後伊達輝宗の頃に米沢を訪れ、陸奥国の伊達氏の家臣・中野宗時に才知を見出されて取り立てられました

伊達輝宗の元で働く。僕は政治が得意です

遠藤基信中野宗時の元で税制台帳の管理を任されていたが、ある時帳簿の不審に気付く。
主人・中野宗時は先代伊達晴宗の家督相続以降長きに渡って絶大な権力を誇っていたため、伊達輝宗が定める税制度や軍役に関わる法度を無視し、独自の対抗勢力を持つまでに私腹を肥やしていました。

永禄13年(1570年 遠藤基信が38歳の頃)、中野宗時が謀反の蜂起しますが、基信は火急の報せで輝宗に伝えます。
これにより輝宗は謀反を鎮圧し徹底した誅罰により家中の火種は霧散し、輝宗治世が確固たるものになりました。
中野宗時は追われて越後に出奔します。
そのとき、多くの家臣が中野に従ったが、基信の説得でのちにそのほとんどが帰参したという

宗時の謀反を密告したことを輝宗に賞されて、輝宗配下の宿老として取り立てられ、1,500石の所領を与えられました。

以降は評定役・鬼庭良直と共に伊達家の両輪として功を挙げて行きます。

文官であるため表立った活躍は知られていませんが、基信は外交手腕に優れており、織田信長徳川家康滝川一益北条氏照柴田勝家らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行なったりしています。

「信長の野望 徹底攻略」の管理人Taka

taka

基信輝宗政権時の伊達氏のなかでは家臣団を代表する立場だったんですね。

輝宗は奥羽諸将の中でも逸早く(天正元年:1573年10月)織田信長に音信を通じているが、これも基信の強い進言によるものという。
信長へ鷹や駿馬などの奥羽の特産を頻繁に贈り、返礼に虎皮や緞子を受け取って誼を通じます。

また、公家で武家伝奏を務めた飛鳥井雅敦と連歌のやり取りをしており、基信中野宗時の立場を引き継いだこと(以前は飛鳥井家との交流は宗信が担当していた)や基信の教養が京都や諸大名と伊達氏との外交における人脈作りにも役立ったことが推測できます。

ゲーム信長の野望では、内政・外政の能力が高く、外政は2200人中72位と非常に高く設定されています。

元亀3年(1572年 遠藤基信が40歳の頃)嫡男・遠藤文七郎宗信が生まれます。

片倉景綱をスカウト

天正3年(1575年 遠藤基信が41歳の頃)、遠藤基信輝宗の徒小姓だった片倉小十郎(景綱)の才を見抜き、幼少の梵天丸(伊達政宗)を補佐する小姓として推挙しています。

片倉小十郎伊達政宗の軍師となった人ですね。

遠藤基信の活躍

天正4年(1576年 遠藤基信が42歳の頃)相馬との戦いで伊具郡へ侵攻。
奉行職に任ぜられているが相馬盛胤に退けられています。

天正5年(1577年 遠藤基信が43歳の頃)徳川家康使者の鷹匠と会談。
輝宗の許しを得て最上領へと送り届けます。
同年信長より上杉謙信討伐に際し本庄繁長と相談の事と援軍要請を受ける。

天正7年(1579年 遠藤基信が45歳の頃)田村清顕の一人娘・愛姫政宗に輿入れ。
梁川八幡宮(福島県福島市梁川)にて花嫁行列の引き取り役を務め、米沢までの警護を担当しました。

天正9年(1581年 遠藤基信が47歳の頃)大崎義隆より愛宕へ願掛けに行く際に伊達領の通行を保障してくれるようにとの書状を受ける。
同年政宗初陣の戦勝を祝う蘆名使者より書状と進物が届く。

天正10年(1582年 遠藤基信が48歳の頃)佐竹義重へ武田家の滅亡により関東並びに奥羽の情勢が危うくなっていると書状を宛てて揺さぶりをかけ、有事の際は信長へ協力する旨を伝えて佐竹の奥州介入を阻止する計略を仕掛けています。
同年田村対蘆名・二階堂の小競り合いに対し輝宗が裁定に乗り出したことに関する外交文書を取次ぐ。
滝川一益が関東出兵と上野厩橋城入城を報せ、近々輝宗と会談したいとの誘いを書状で送る。

政宗に激おこ

天正13年(1585年)輝宗隠居し、伊達政宗が家督継承します。
基信は「主君へ二代の出頭はならぬ物なり」と常日頃から宣言しており、同年8月に基信も隠居してしまいます。

政宗は晩年このことについて、自分のことを軽んじているのかと思ったがそうではなかった、と語り、その証となる出来事を近習へ話して聞かせた。

家督後、政宗は上方から初めて奥羽へ下ってきた木綿染めを広間に広げ、家臣に見せびらかそうとした。
家臣たちは見たこともない染物に度胆を抜かれ、あれやこれやと褒めそやしていたところ、基信がやってきて何の騒ぎかと問いただす。
訳を聞くと基信は怒りだし、木綿染めをくるくると丸めて政宗へ返した上で「大将たる者がこんな御心の小さいことをして喜ぶのはお止め下され」と諫言し、在所へ戻って行った。
政宗曰く「あの時の基信の怒り様、今思えばもっともなことであった」とのこと。

輝宗の死を追って

輝宗が隠居し、基信が追って隠居した2ヶ月後、天正13年(1585年)10月8日、伊達輝宗政宗のやり方に遺恨を抱いた二本松義継により拉致されて、政宗の部隊に義継もろとも銃撃されて非業の死を遂げた。

輝宗惨死の報が米沢に届くと基信は悲しみに暮れました。
輝宗の10月21日の二七日法要(ふたなのか=14日)を済ませた後、殉死しようとしたが、政宗により殉死の禁令が出ていたため周りの家臣たちによって嫡男・宗信へ処罰が及ばないよう阻止される。
しかし、片倉景綱に後事を託したのち百ケ日忌辰の日に輝宗の後を追うように墓前で割腹し、殉死したという。享年54。

墓は山形県高畠町夏刈・慈雲山資福寺跡に有り、主君輝宗の墓の隣で控えるように眠っている。

嫡男の宗信が17歳で家督を継いだが早世し、その弟の玄信が継いだ。
後に玄信は栗原郡川口村滝野(宮城県栗原市一迫川口滝野)に所領を与えられ、遠藤家は代々伊達氏の宿老を勤め明治まで続いたようです。

近代の調査

平成25年(2013年)5月に行なわれた、山形県米沢市にある「延徳寺遺跡」の発掘調査により、同市教育委員会は「同遺跡から伊達氏上級家臣の屋敷跡とみられる遺構が見つかり、出土品などから遠藤基信の館跡の可能性がある」と発表されています。

逸話

進物をやり取りする中で「源五郎が鋳たる釜」という逸話も伝えられている。
ある時輝宗は、ふと気まぐれに信長への進物に基信の選んだものを加えて送ろうと話を持ちかけた。
金細工かあるいは名馬か、この成り上がり者は何を選ぶのかと興味深々でいると、基信は「では家臣の源五郎が鋳物を得意としておりますので、茶釜を鋳らせて送りましょう」と返事をした。
輝宗は「天下人たる信長公にその方の家臣の釜では不釣合いではないか?」と尋ねた。
すると「修験者の小倅がいくら背伸びをしても田舎者の見栄張りとそしられるのが関の山です」と基信の言。
輝宗は一笑すると茶釜の進物を許した。

上方では朱鷺色の鷹や白石鹿毛の駿馬など珍しい品々に感じ入り、茶席の宴会が行われた。
その席で信長は件の釜の由来を聞くと、側に控えていた千宗易に「源五郎の釜を見たことがあるか」と尋ねた。
「恐れながら未だ実見したことはございませぬ」と宗易は畏まって答えた。
信長は「天下の御茶頭も知らぬ逸品よ」と高笑いし、早速名物遠山と名付けたこの釜で湯を沸かして話の種としたという。

上記の逸話は木村宇右衛門覚書に記載されているが、史実とする証拠は現存しておらず後世の創作と見られる。
いずれにせよ基信の聡明さが長く語り継がれたことは確かである。

卓抜した先見の明を持ち、伊達政宗の言によれば「基信が来年について行った予測は、10のうち8つは外れることがなかった」という。

まとめ

いかがでしたか?

伊達輝宗に謀叛の知らせをいち早く伝え、若い頃に作ったコネと広い見聞により、伊達輝宗時代に外交面で活躍した遠藤基信
主君・伊達輝宗を追って殉死し、お墓が輝宗の墓の隣で控えるようにあると。いい話ですね。

お墓は山形県高畠町夏刈・慈雲山資福寺跡にあるようです。東北に行くのは距離的になかなかハードルが高いですが、是非行ってみたいものです。

それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!

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信長の野望 徹底攻略の管理人 taka

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信長の野望シリーズを「革新」の頃の2005年からプレイ。大河ドラマや歴史小説を読みまくる。明治維新・元寇も好きだが戦国時代が一番好き。
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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬