織田信長の美濃平定
織田信長の美濃平定
1561年5月
織田信長と斎藤義興
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森辺の戦い(もりべのたたかい)
1561年5月14日
岐阜県安八郡安八町森部
十四条の戦い(じゅうしじょうのたたかい)
1561年5月23日
岐阜県本巣市十四条
軽海の戦い(かるみのたたかい)
1561年5月23日 ~ 24日
岐阜県本巣市軽海
犬山城の戦い(いぬやまじょうのたたかい)
1563年2月 ~ 1564年7月8日
愛知県犬山市犬山
国宝 犬山城
新加納の戦い(しんかのうのたたかい)
1563年4月
岐阜県各務原市那加新加納町
永禄4年(1561年)、美濃に侵攻しながらも結局は退陣に追い込まれていた織田信長は、永禄6年(1563年)4月、5700の軍勢を率いて木曽川を渡ると美濃各務原に侵入し、そのまま斎藤龍興の居城である稲葉山城にほど近い新加納に布陣した。
信長が付近の村に火を放ちながら、稲葉山城の城下にあたる井口に向かうと、これに対し稲葉山城から斎藤龍興の軍勢3500が打って出てきて新加納で戦いとなった。
数に勝る信長軍が勝つと思われていたが、龍興の家臣・竹中半兵衛の伏兵策に翻弄され、信長軍は900余が討ち取られ敗北した。
この合戦で活躍した半兵衛に対し、龍興は褒賞するどころか前と相変わらず馬鹿にしたりしたため、翌年2月に自身の留守中に僅か16人で居城の稲葉山城を乗っ取られた。
その半年後城は返されたものの半兵衛は斎藤家を出奔し、斎藤家は衰退していくことになる。
鵜沼城の戦い(うぬまじょうのたたかい)
1565年8月
岐阜県各務原市鵜沼
猿啄城の戦い(さるばみじょうのたたかい)
1565年8月
岐阜県加茂郡坂祝町勝山
堂洞砦の戦い(どうぼらとりでのたたかい)
1565年9月28日
岐阜県美濃加茂市鉢屋町
関の戦い(せきのたたかい)
1565年9月29日
岐阜県関市
河野島の戦い(かわのしまのたたかい)
1566年8月29日
岐阜県羽鳥郡岐南町
斎藤道三の死によって尾張・美濃の同盟関係が破れると、織田信長は幾度か美濃への侵入を企てた。
永禄9年(1566年)8月29日、信長は美濃国境まで進軍するも、予期せぬ出水に遭遇し木曾川を越えて濃尾国境に位置する河野島まで進軍して境川の南岸に布陣した。
それを知った斎藤龍興も直ちに稲葉山城を打って出て、境川の北岸に着陣した。
斎藤側は、境川を限りとして守備したが、翌30日に木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった。
ようやく水の引いた閏8月8日未明、利がないと判断した信長が木曾川を渡って尾張に撤退しようとしたところを龍興が追撃する。
これにより、織田方の兵が討死や溺死するなどして敗北した。
織田軍は武器を捨てて退散するという有様だったという。
稲葉山城の戦い(いなばやまじょうのたたかい)
1567年8月1日 ~ 15日
岐阜県岐阜市大宮町
稲葉山城(岐阜城)
この合戦に登場する武将
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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斎藤龍興 (さいとうたつおき)
美濃の戦国大名。義龍の嫡男。父の死後家督を継ぐ。美濃三人衆に背かれ、織田信長に敗れて追放された。その後は朝倉家に属し、越前刀禰坂合戦で戦死した。
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織田信清 (おだのぶきよ)
織田家臣。犬山城主。織田信秀の娘を娶り一時期織田信長に協力するも、やがて敵対する。信長に犬山城を落とされ、甲斐へと逃亡したといわれる。
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竹中半兵衛 (たけなかはんべえ)
斎藤家臣。わずか16人で主家の居城・稲葉山城を乗っ取る。その卓抜した知略を羽柴秀吉に見込まれ、軍師となった。秀吉の中国攻めに従軍し、陣中で病没。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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稲葉一鉄 (いなばいってつ)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。姉川合戦では浅井軍に横槍を入れ、味方を勝利に導いた。頑固な性格から「一徹」の語源になる。
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氏家卜全 (うじいえぼくぜん)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後、織田家に仕える。伊勢平定戦で功を立てた。長島一向一揆との戦いで織田軍が敗れた際、殿軍を務め、戦死した。
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安藤守就 (あんどうもりなり)
斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後は織田信長に属すが、のちに追放された。本能寺の変に乗じて旧領回復の兵を挙げるが、稲葉一鉄と戦って敗死した。