石山合戦
石山合戦
1574年4月
織田信長と本願寺顕如
目次[非表示]
本願寺の戦い(ほんがんじのたたかい)
1574年4月3日
大阪府大阪市中央区大阪城
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)
1574年4月12日
大阪府羽曳野市古市
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)
1575年4月8日 ~ 21日
大阪府羽曳野市古市
新堀砦の戦い(しんぼりとりでのたたかい)
1575年4月17日 ~ 19日
大阪府大阪市住吉区長居東
高屋城の包囲を続けながら、織田信長は4月13日には摂津天王寺に陣をおくと、本願寺周辺の刈田を行う。
摂津・大和・山城・若狭・美濃、尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・根来衆の増援軍が続々と到着し、織田軍は総勢10万余の大軍となった。
さらに16日には住吉に陣を移すと、本願寺の支城であった摂津新堀砦を包囲する。
17日、織田軍はこの城を取り巻き、19日に堀に草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門・搦手門の両方に突撃し、170余の首級をあげた。
本願寺に加勢をしていた十河一行は討死し、香西長信は生捕にされ斬首された。
新堀砦が陥落し孤立する形となった本願寺は、 越前一向一揆が鎮定されると松井友閑を仲介にして10月に再び信長と和睦している。
天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)
1576年5月3日 ~ 7日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
木津浦の戦い(きづうらのたたかい)
1576年7月13日
大阪府大阪市大正区千島一帯
本願寺の戦い(ほんがんじのたたかい)
1578年4月5日 ~ 6日
大阪府大阪市中央区大阪城
雑賀沖の戦い(さいかおきのたたかい)
1578年7月10日
和歌山県和歌山市加太沖
木津浦の戦い(きづうらのたたかい)
1578年11月6日
大阪府大阪市大正区千島一帯
この合戦に登場する武将
-
織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
-
本願寺顕如 (ほんがんじけんにょ)
本願寺11世法主。証如の子。武家勢力に抵抗し、日本各地で一向宗門徒を蜂起させる。信長包囲網では中心的役割を担い、十年の長きに渡り戦いを続けた。
-
細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
-
中川清秀 (なかがわきよひで)
池田家臣。茨木城主。和田惟政を討つなど活躍した。のち荒木村重に属す。村重の逃亡後は羽柴秀吉に属し、山崎合戦で戦功を立てた。賤ヶ岳合戦で戦死した。
-
遊佐信教 (ゆさのぶのり)
畠山家臣。長教の子。河内守護代を務めた。主君・高政を紀伊に追放し、高政の弟・昭高を擁立。その昭高をも暗殺するが、のちに織田信長によって討たれた。
-
三好康長 (みよしやすなが)
三好家臣。長慶の叔父。咲岩と号した。織田信長の上洛軍に敗れ、家臣となる。阿波・讃岐の国衆を多く信長方に誘引した。本能寺の変後は豊臣秀吉に従った。
-
明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
-
佐久間信盛 (さくまのぶもり)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「のき佐久間」の異名をとる。石山本願寺攻めの総大将を務めるが、本願寺の退去後、怠慢不手際の叱責を受け、追放された。
-
蒲生元珍 (がもうもとよし)
織田家臣。父・茂綱の死後、家督を継ぎ所領を安堵される。佐久間信盛の与力として各地に従軍した。本能寺の変後は織田信孝に属す。のちに前田家に仕えた。
-
毛利輝元 (もうりてるもと)
毛利隆元の嫡男。祖父・元就の死後、毛利家を継ぎ、秀吉の下では五大老の1人となる。関ヶ原合戦では西軍総大将の座に就くが、戦場に出ることはなかった。
-
織田信忠 (おだのぶただ)
信長の嫡男。松永久秀の謀叛鎮圧や甲斐平定戦などで功を立てた。信長から家督を譲られ、美濃・尾張の2国を領する。本能寺の変の際、二条御所で自害した。
-
九鬼嘉隆 (くきよしたか)
織田家臣。志摩海賊衆の1人。木津川口合戦での大敗を契機に「鉄甲船」を建造し、毛利水軍を粉砕する。その功で大名に出世し「海賊大名」の異名をとった。