武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
松永久秀(まつながひさひで)
松永久秀(まつながひさひで)
松永久秀 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
86 (56 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
72 (325 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
94 (16 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
90 (26 位) | ||||
合計 | 342 (28 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1511年 | 三好家臣。主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。のち織田信長に属し、謀叛を起こすが敗れ「平蜘蛛」とともに爆死した。 | |||||||||
死亡年 | 1577年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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策謀 | 特殊な調略具申が可能 | ||||||||||
数寄 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
巧言 | 他勢力との交渉に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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平蜘蛛 | 敵部隊の兵力減少 敵部隊の体力低下 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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謀攻主義 | 調略成功率上昇 最大兵力減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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商人心得 | 御用商人が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 36 | 岸和田城 | ||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 43 | 信貴山城 | ||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 50 | 信貴山城 | ||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 57 | 信貴山城 | ||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 60 | 信貴山城 | ||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 62 | 信貴山城 | ||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 死亡 |
松永久秀が登場する合戦
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相国寺の戦い [三好長慶と細川晴元]
1551年7月14日
京都府京都市上京区相国寺門前町
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数掛山城の戦い [三好長慶と細川晴元]
1553年9月18日
京都府亀岡市本梅町平松
-
白川口の戦い [三好長慶と細川晴元]
1558年6月9日
京都府京都市左京区白川
-
勝軍地蔵山城の戦い [三好長慶と細川晴元]
1561年7月28日 ~ 11月24日
京都府京都市左京区北白川清沢口町
-
教興寺の戦い [三好長慶と細川晴元]
1562年5月19日 ~ 20日
大阪府八尾市教興寺
-
二条御所の変 [三好三人衆と松永久秀]
1565年5月19日
京都府京都市上京区武衛陣町
二条御所 二の丸御殿
-
筒井城の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1565年11月18日
奈良県大和郡山市筒井町
二条御所の変で将軍の足利義輝を弑逆した三好三人衆と松永久秀は、やがて三好氏の実権をめぐり対立するようになる。
そうしたなか、かねてより久秀と抗争をくりひろげてきた筒井藤勝丸(順慶)は、長慶の甥で三好氏の当主となった三好義継や三好三人衆と同盟を結び勢力回復を図ろうとした。
永禄8年(1565年)11月16日、手始めに三好軍は松永軍に属していた飯盛山城を攻撃した。
この動きをみた松永久秀は18日に、三好軍と歩調がまだ揃っていない筒井城を奇襲する。
松永軍の手際の良さに箸尾高春・高田当次郎らの国人衆が順慶を見限って松永軍に寝返えり、また三好三人衆からの援軍は間に合わなかたっため、筒井藤勝丸は自落して、一族の布施氏を頼って布施城に落ち延びた。
-
上野芝の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1566年2月17日
大阪府堺市西区上野芝町
永禄8年(1565年)11月、三好三人衆は、松永久秀の属城である河内飯盛山城にいた三好義継を河内高屋城に迎え、庇護下におく。
三好康長や安宅信康ら一門衆も三好三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。
翌永禄9年(1566年)2月、松永久秀は和泉・堺に拠る畠山高政・安見宗房主従と同盟を結び根来衆とも連携し義継の居城高屋城を攻撃するも、三好義継・三好三人衆が久秀を討つため1万3000余の兵を率いて出陣した。
2月17日、松永方は城を出て、三人衆と同盟者の筒井順慶と河内上野芝で戦うが、両者の挟撃を受け敗れた。
-
高屋城の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1566年5月24日
大阪府羽曳野市古市
-
筒井城の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1566年6月8日
奈良県大和郡山市筒井町
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東大寺の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1567年4月18日 ~ 10月10日
奈良県奈良市雑司町
東大寺
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筒井城の戦い [織田信長の大和平定]
1568年10月6日 ~ 8日
奈良県大和郡山市筒井町
筒井順慶は、永禄9年(1566年)6月の筒井城の戦いに勝利したことで、居城の筒井城を松永久秀から奪還することに成功していた。
一方で松永久秀・久通父子と三好義継らは織田信長に接近し、信長は義継には河内上半国守護と若江城を与え、松永父子には「手柄次第切取ヘシ」と大和を武力で奪い取るよう命じた。
さらに信長は細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万の援軍の約束をし、久秀は再び大和に帰国し攻勢に出た。
六角氏や三好三人衆を破った織田軍の軍事力は脅威的と見たのか、筒井軍の中には見限って松永軍に合力する者もいた。
代表格は菅田備前守で、第六次筒井城の戦いで既に寝返った箸尾高春らと共に9月25日、十市城を攻撃し放火して回った。
それ以外にも郡山向井氏、小泉秀元らも松永久秀に通じたようである。
10月6日孤立した筒井軍に松永軍が総攻撃を行い、攻城の先鋒は昨日まで筒井軍にいた郡山向井隊が務めていた。
信長の援軍が到着する松永軍の士気は高いと思われている。
まず城下の家々を焼き払った。
筒井軍も防戦したが、次第に討ち取られていき、筒井城が落城したのは2日後の10月8日の夕刻であった。
筒井順慶は筒井城を脱出して東山中の福住中定城に落ちていった。
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井戸城の戦い [織田信長の大和平定]
1568年10月8日 ~ 1570年3月27日
奈良県天理市石山町
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片岡城の戦い [織田信長の大和平定]
1569年4月8日 ~ 16日
奈良県北葛城郡上牧町
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天筒山城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
-
福住城の戦い [織田信長の大和平定]
1570年6月9日
奈良県天理市福住町
永禄11年(1568年)の筒井城の戦いに敗れた筒井順慶は、縁戚の福住氏の居城である福住城に逃れ匿われており、松永久秀を討つ機会をうかがっていた。
元亀元年(1570年)6月9日、筒井順慶を討つべく松永久秀・久通父子が福住城に攻撃を仕掛けてくると、福住城主の福住宗永は防戦に務め、松永勢を撃退。
順慶を守ることに成功した。 -
高屋城の戦い [織田信長と三好三人衆]
1571年6月9日 ~ 11日
大阪府羽曳野市古市
永禄12年(1569年)織田信長の入京に従った高屋城主の畠山高政が家臣である遊佐信教に追放されると、信教はその弟の昭高を擁立し傀儡とし高屋城主とさせた。
元亀2年(1571年)6月、三好義継・三好三人衆は松永久秀とともに高屋城を攻撃するが、信長方から足利義昭直臣の和田惟政らの後詰が着陣したため兵を退く。
こののち三好三人衆は信長に反旗を翻した将軍足利義昭と結んで抵抗を続けるが、天正元年(1573年)淀城の戦いで石成友通が敗死すると没落した。
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川合城の戦い [織田信長の大和平定]
1571年7月18日
奈良県北葛城郡河合町川合
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辰市城の戦い [織田信長の大和平定]
1571年8月4日
奈良県奈良市西九条町
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中嶋城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年2月27日
大阪府大阪市淀川区木川西
元亀4年(1573年)2月27日、反信長派の三好義継は松永久秀とともに、 細川昭元が守る摂津中嶋城(堀城)を攻撃した。
このころにはすでに管領細川家の勢威は衰えていたが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったので、入京した織田信長に利用されていた。
義継・久秀は、昭元を和泉堺に敗走させると、3月6日にはそれまで対立してきた足利義昭から赦免され、義昭と結んで信長に対抗することにしたのである
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多門城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年12月26日
奈良県奈良市多門町
入京した織田信長にいち早く降り、多聞城と信貴山城を拠点に大和の支配を任されていた松永久秀であったが、元亀4年 (1573年)3月に足利義昭と結んで信長に反旗を翻す。
信長は佐久間信盛・筒井順慶らに命じ、久秀とその子の久通が拠る多聞城を攻撃させた。
4月に武田信玄が病死し、7月に義昭が信長に追放され、11月に三好義継が若江城の戦いで討たれたりと状況が悪くなり、松永久秀は多聞山城を包囲していた佐久間信盛の軍に和議を申し込み12月に降伏した。
信長はすでに11月29日の段階で佐久間信盛に「多聞山城を没収して赦免するよう」指示していたため、重ねての反逆に対して多聞山城を明け渡す条件で許している。
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信貴山城の戦い [松永久秀の謀反]
1577年10月5日 ~ 10日
奈良県生駒郡平群町信貴山
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