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松倉右近(まつくらうこん)は何をした人?島左近と並び「右近左近」と称された男【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回紹介するのは筒井家の重臣・松倉右近(まつくらうこん)です。重信(しげのぶ)とも勝重(かつしげ)言います。
キリシタン大名の高山右近とは全くの別人なので注意です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
松倉右近の生まれ
松倉右近は筒井氏の重臣・松蔵権助秀政の子で天文6年(1537年)に生まれます。
生まれた地域が違いますが豊臣秀吉と同い年ですね。
当時は「松倉」ではなく「松蔵」の表記だったようです。
松倉氏の祖は、藤原姓あるいは橘姓ともいわれており、元々は越中の人で嘉吉年間に大和添上郡横田に移動し筒井氏に仕えます。
藤原姓あるいは橘姓ということは結構由緒正しい家系そうですね。
松倉氏が仕えた筒井家は、もともと大和国(奈良県)の土豪で、勢力を拡大し戦国大名として地位を確立します。
天文4年(1535年)に当主・筒井順興は死去し、嫡男の筒井順昭が後を継いだところでした。
松倉右近の活躍
天文19年(1550年 松倉右近が13歳の頃)に跡を継いだ筒井順昭は28歳という若さで死去し、嫡男の筒井順慶が2歳で後を継ぐこととなります。
永禄2年(1559年 松倉右近が22歳の頃)より、その隙をついて三好長慶の家臣・松永久秀が大和に侵攻します。
永禄13年(1570年 松倉右近が33歳の頃)2月、井戸良弘が松永氏の多聞山城を攻めたことにより、久秀に人質として預けられていた井戸良弘の8歳の娘と松倉右近の11歳の弟が殺害されてしまいます。
天正10年(1582年 松倉右近が45歳の頃)、本能寺の変が起きて光秀が信長を殺すと、筒井家は明智家の与力という関係から協調行動を勧誘されるが、順慶はこれを拒否。
このため光秀の滅亡後も所領は安堵された。
この時の筒井軍の行動が後世に脚色され、日和見的態度を指す「洞ヶ峠」の由来となり、松倉右近が「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたと伝えられています。
洞ヶ峠の日和見とは
光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた順慶に協力を求めますが、順慶はこれを断り光秀は合戦に敗れてしまいます。
このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす洞ヶ峠に駐屯して戦局を傍観し、秀吉勢の勝利と見るや直ちに峠を下り、秀吉に味方したことから、日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語を生みました。
日和見・・・周囲の形勢をうかがい、自分の態度を積極的に決定しないこと。事のなりゆきによって去就を決めようとすること。
筒井家が秀吉に属す
天正11年(1583年 松倉右近が46歳の頃)5月、筒井家は豊臣秀吉に従い伊賀に出陣します。
筒井順慶の陣の中に弥八郎と名乗っていた松倉右近もおり、敵方の夜討ちによって弟・弥二郎や島左近らと共に負傷している。
同年12月2日、父・松倉秀政が死去。
『多聞院日記』によると、この直後の29日、秀吉の命で筒井氏の内衆11人の大名成が行われ、松倉右近は弥二郎や中坊秀祐らと共に「大名」に定められると、この年に追放された越智氏の拠点である高市郡越智に3000石を与えられました。
天正12年(1584年)2月には、越智氏の居城だった高取城が復興し、この地を領していた松倉右近が城主になります。
8月、筒井順慶が死去し、その跡を継いだ順慶の養子・筒井定次のもと、10月に葬儀が行われ、この際松倉右近の沙汰により、千人の僧が同じ経を一部ずつ読む千部経が執り行われました。
11月には、秀吉より右近大夫に任じられる。
松倉右近と名乗ったのはここからですね。
天正13年(1585年)閏8月、筒井定次は大和から伊賀上野城に移封され、松倉右近もこれに従い、名張郡・名張城主(梁瀬城)として八千余石を与えられています。
古城のため、子の松倉重政と共に縄張りして改築したという。
文禄2年(1593年)7月7日に死去した。享年56。
筒井家で「右近左近」と称される
筒井家には、後に石田三成に仕えた島清興(左近)も当時在籍しており、松倉右近と島左近の両翼で「右近左近」称されていました。
漫画「ナルト」にも「右近・左近」という敵がいましたね。
また『筒井順慶葬式帳』では森好之を加え、「筒井家三老臣」とも言われています。
右近の意味
「右近」や「左近」と称している武将をよく見かけますが、これは家系や親、本人の官職名を通称として用いる百官名(ひゃっかんな)です。
特に戦国時代では、各地の大名・領主が戦力及び地域支配機構の末端として村落上層階級などを取り込んでいった結果、武士階級は厳格性を失って範囲を拡大し、新興武士層を中心に「大膳」や「修理」など官衙名のみ、あるいは「将監」「将曹」など官職の等級のみを称したり、「助」や「丞」など官職の等級を名乗りの一部とする風習が広がって、本来の官職名の一部を用いた百官名もしくは官名由来の名乗りも多く見られるようになっていったようです。
黒田家の栗山善助の子で栗山大膳という武将がいたり、秀頼政権で権威を振るった大野治長は大野修理とも言いますね。
松倉右近の「右近」とは「右近衛府」の通称で、武器を持って宮中の警護、行幸の供奉ぐぶなどをつかさどった役所のことだそうです。
ちなみに「左近」とは「左近衛府」の通称で、右近衛府とともに宮中の警固、行幸の警備にあたった役所です。
戦国時代は家系を改ざんしたり、役職も自称していたりと曖昧な部分がありますよね。
ゲーム「信長の野望」での松倉右近の評価
ゲーム「信長の野望 大志」での松倉右近の評価を見てみましょう。
統率・武勇という戦闘面のパラメーターは平均より下ですが、知略・政治力は2200人中100~300位くらいで高く設定されています。
筒井家三老臣の1人というだけあって、筒井家の中でたくましい存在感を放ってくれています。
まとめ
いかがでしたか?
関ヶ原の合戦で活躍した島左近と比べて知名度や活躍が劣っている松倉右近ですが、行政方面ではしっかり活躍した記録が残っていましたね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。