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島左近と同様に関ヶ原の戦いで西軍についた元筒井家臣・岸田忠氏(きしだただうじ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、筒井家の家臣である岸田忠氏(きしだただうじ)、別名伯耆守岸田晴澄です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
岸田忠氏の生まれ
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1550年と設定されています。
そうであれば筒井順慶の約2歳下になります。
はじめは大和の戦国大名・筒井順慶に仕え、2,000石を領し、松永久秀との10年にもわたる戦いに従軍します。
天正13年(1585年)に順慶が病死し子の、筒井定次が家督を継ぐとこれに従います。
しかし同年閏8月18日、筒井家が伊賀上野に20万石で転封されると、大和を治めた豊臣秀長や養子・秀保に仕えました。
地元に残った組ですね。
豊臣秀保の死後は豊臣秀吉の家臣となり、大和山辺郡岸田1万石を賜る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、筒井家臣時代からの仲である島左近と同様に石田三成方に属し、8月11日に東軍を撹乱するために三河国藤川に放火を試みるが失敗し、町民に武装を解除され、家臣の岸田弥右衛門が処刑された。
9月15日の関ヶ原本戦では、豊臣秀頼配下の黄母衣衆として織田信高、伊藤盛正らと小西行長の陣営に加わり戦ったが敗れたため、改易となり、慶長6年(1601年)11月に陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられた。
元和元年(1616年)、死去。享年70余。光林寺に葬られた。
信長の野望での岸田忠氏
ゲーム信長の野望での岸田忠氏のパラメーターを見てみましょう。
統率 50 (1331 位)
武勇 56 (1026 位)
知略 60 (916 位)
内政 32 (2041 位)
外政 42 (1713 位)
合計 240 (1630 位)
2200人中の順位です。
黄母衣衆は馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者、つまりエリートなのでもう少し武勇が高くてもいいんじゃないかと思いますね。
そして撹乱作戦を失敗しているので、知略はもう少し低めだろう。
まとめ
いかがでしたか?
それにしても400年前の人物が何をしたか知れるって面白いですよね。
タイムマシンがあれば過去に戻って色々な人と話してみたい。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
岸田忠氏