織田信長の大和平定
織田信長の大和平定
1568年10月
松永久秀と筒井順慶
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筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)
1568年10月6日 ~ 8日
奈良県大和郡山市筒井町
筒井順慶は、永禄9年(1566年)6月の筒井城の戦いに勝利したことで、居城の筒井城を松永久秀から奪還することに成功していた。
一方で松永久秀・久通父子と三好義継らは織田信長に接近し、信長は義継には河内上半国守護と若江城を与え、松永父子には「手柄次第切取ヘシ」と大和を武力で奪い取るよう命じた。
さらに信長は細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万の援軍の約束をし、久秀は再び大和に帰国し攻勢に出た。
六角氏や三好三人衆を破った織田軍の軍事力は脅威的と見たのか、筒井軍の中には見限って松永軍に合力する者もいた。
代表格は菅田備前守で、第六次筒井城の戦いで既に寝返った箸尾高春らと共に9月25日、十市城を攻撃し放火して回った。
それ以外にも郡山向井氏、小泉秀元らも松永久秀に通じたようである。
10月6日孤立した筒井軍に松永軍が総攻撃を行い、攻城の先鋒は昨日まで筒井軍にいた郡山向井隊が務めていた。
信長の援軍が到着する松永軍の士気は高いと思われている。
まず城下の家々を焼き払った。
筒井軍も防戦したが、次第に討ち取られていき、筒井城が落城したのは2日後の10月8日の夕刻であった。
筒井順慶は筒井城を脱出して東山中の福住中定城に落ちていった。
井戸城の戦い(いどじょうのたたかい)
1568年10月8日 ~ 1570年3月27日
奈良県天理市石山町
片岡城の戦い(かたおかじょうのたたかい)
1569年4月8日 ~ 16日
奈良県北葛城郡上牧町
福住城の戦い(ふくすみじょうのたたかい)
1570年6月9日
奈良県天理市福住町
永禄11年(1568年)の筒井城の戦いに敗れた筒井順慶は、縁戚の福住氏の居城である福住城に逃れ匿われており、松永久秀を討つ機会をうかがっていた。
元亀元年(1570年)6月9日、筒井順慶を討つべく松永久秀・久通父子が福住城に攻撃を仕掛けてくると、福住城主の福住宗永は防戦に務め、松永勢を撃退。
順慶を守ることに成功した。
川合城の戦い(かわいじょうのたたかい)
1571年7月18日
奈良県北葛城郡河合町川合
辰市城の戦い(たついちじょうのたたかい)
1571年8月4日
奈良県奈良市西九条町
この合戦に登場する武将
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松永久秀 (まつながひさひで)
三好家臣。主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。のち織田信長に属し、謀叛を起こすが敗れ「平蜘蛛」とともに爆死した。
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松永久通 (まつながひさみち)
三好家臣。大和多聞山城主。久秀の子。父に従い、将軍・足利義輝の謀殺などに加担した。のちに織田信長に属すが、父とともに信長に背いて敗れ、自害した。
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箸尾高春 (はしおたかはる)
筒井家臣。知行4万石を領し、主君・順慶の妹を娶った。筒井家の伊賀転封には従わず、豊臣秀長に属す。関ヶ原合戦後に所領を失い、のち大坂城に入城した。
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筒井順慶 (つついじゅんけい)
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
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井戸良弘 (いどよしひろ)
筒井家臣。井戸城主。のち居城を子・覚弘に譲り、織田信長に仕える。各地で功を立て、山城槇島2万石を得た。山崎合戦で明智光秀に属したため改易された。
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三好義継 (みよしよしつぐ)
十河一存の子。三好長慶の死後、三好三人衆の後見で宗家を継ぐ。織田信長に降るが、京を追われた足利義昭を保護したため、織田軍の攻撃を受け、敗死した。
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畠山高政 (はたけやまたかまさ)
河内守護。政国の子。三好家と和戦を繰り返した。のちに織田信長に降って河内半国を与えられるが、家臣・遊佐信教との争いに敗北し、紀伊岩室城に逃れた。