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赤井家清(あかいいえきよ)は何をした人?若くして亡くなった赤井直正の兄【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは丹波の豪族・赤井家清(あかいいえきよ)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
赤井家清の生まれ
赤井家清は大永5年(1525年)、丹波氷上郡後屋城主・赤井時家の嫡子として誕生しました。
通称は右兵衛。
丹波赤井氏とは丹波国を本拠とする国人で河内源氏源頼季の後裔です。
taka
基本的に源氏というと、この河内源氏のことを指していて、数々の武将が経歴詐称する際に「私は河内源氏の流れを汲んでいる」と使っている、由緒正しい家ですね。
弟に「丹波の赤鬼」こと赤井直正がいます。
赤井家は丹波の一国衆で、波多野家の勢力下にありました。
波多野家も幕府の評定衆に選ばれた実績があり、戦国時代前期は畿内でもかなりの実力者でした。
しかし、波多野晴通は暗愚と称される人物で、三好家の侵攻を受けるなど、丹波の支配力を徐々に落としていきました。
そんな中、台頭したのが国衆の赤井家です。
若くして数々の戦功を挙げたといいます。
嫡男である赤井家清が家督を継ぐ
天文2年(1533年 赤井家清が8歳の頃)、細川晴元や三好元長に対し細川晴国が挙兵すると、晴元方から晴国方に転じた多紀郡の波多野秀忠によって赤井氏は攻められ、家清は父・時家と共に播磨国三木城の別所就治を頼り落ち延びました。
天文4年(1535年 赤井家清が10歳の頃)に波多野秀忠が晴元方に帰参し、天文5年(1536年 赤井家清が11歳の頃)に細川晴国が摂津国天王寺で自害すると、赤井氏は丹波に帰還し旧領を徐々に回復していきました。
この後、波多野秀忠の子・元秀の娘を娶り、赤井家は波多野氏と同盟を結んでいます。
赤井家清は、家督を継ぐと周辺の弱小国衆を統合して、丹波に覇を唱えます。
次男の赤井直正は、赤井家の親戚である荻野家の養子となります。
赤井家清と地元の国衆との間で争いが起こったとき、先代から領土問題でもめていた三好家が介入。
派遣された司令官は松永久秀の弟の武勇に優れている松永長頼という男でした。
弘治元年(1555年 赤井家清が30歳の頃)、松永長頼との香良合戦で負傷し、弘治3年(1557年)2月6日、その傷が元で死去しました。
享年33。
赤井氏の家督は子の赤井忠家が継ぎ、家清の弟、通称赤鬼の赤井直正がこれを補佐しました。
まとめ
いかがでしたか?
毛利隆元や長宗我部信親のように優秀な嫡男が亡くなるケースってたまに見かけますよね。
若く亡くなっていなかったら、どんな活躍をしていたのかと考えたくなります。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!