views : 1666
三宅家義(みやけいえよし)は何をした人?黒田家の海上幕僚長!【黒田二十四騎】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは黒田二十四騎のうちの一人、三宅家義(みやけいえよし)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
黒田二十四騎
三宅家義は黒田二十四騎です。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、 黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。
- 黒田兵庫助利高 : 黒田孝高の実弟・黒田職隆の次男 黒田八虎の一人
- 黒田修理亮利則 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の三男 黒田八虎の一人
- 黒田図書助直之 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の四男 黒田八虎の一人
- 黒田三左衛門一成 : 黒田孝高の養子 黒田八虎の一人
- 栗山善助利安 : 黒田八虎の一人
- 井上九郎右衛門之房 : 黒田八虎の一人
- 母里太兵衛友信 : 黒田八虎の一人
- 後藤又兵衛基次 : 黒田八虎の一人
- 毛屋主水武久
- 吉田六郎太夫長利 : 黒田孝高の乳兄弟
- 村田兵助吉次
- 三宅山太夫家義
- 益田与助正親
- 堀平右衛門定則
- 久野四兵衛重勝
- 原弥左衛門種良
- 林太郎右衛門直利
- 野村太郎兵衛祐勝 : 母里友信の異母弟
- 野口藤九郎一成
- 竹森新右衛門次貞
- 桐山孫兵衛信行
- 衣笠久左衛門景延
- 菅六之助正利
- 小河伝右衛門信章
通称は山太夫(さんだゆう)、藤十郎(とうじゅうろう)、若狭守。
生まれ
wikipediaでは、「摂津国三宅城主の家系に三宅次太夫の子として生まれ、天文22年(1553年)に三宅城が三好氏に攻められて落城すると、父と共に脱出した。それ以後は渡り奉公をしていたようであるが、明確なことは不明である。」と記載があるのですが、播州の三宅家出の説もあります。
後に仕える黒田家は播州播磨なので、播州の三宅家出かとも思いますが、 黒田官兵衛に仕えたのが28歳と遅いので、摂津説が正しいのでは無いかと思います。
天文16年(1547年)に生まれます。
黒田官兵衛に仕える
天正3年(1575年 三宅家義が28歳の頃)、 黒田官兵衛孝高に取り立てられ、300石を与えられます。
1575年といえば、 黒田官兵衛孝高(当時、小寺性)が主君の 小寺政職を説き織田家に従属することを決め、使いとして岐阜に行きました。
その際、圧切を与えられています。
天正5年(1577年 三宅家義が30歳の頃)の第一次上月城の戦いで、支城の大の山城を囲んだ際、「自分に命じていただければ、あのような小城を落とすのは朝飯前」と発し、自身の発言通り一人で城に乗り込んで敵を降伏させた。
その後、 黒田官兵衛孝高によりその度胸を褒められて、通称を『孫子』の「動かざること山の如し」から採って「山太夫」と改める。
士官されて2年で、大きい手柄を立てれて三宅家義も安堵しているでしょう。大型助っ人です。
1577年は織田家の 羽柴秀吉を姫路城に迎えています。
天正15年(1587年 三宅家義が40歳の頃)の 城井鎮房の反乱の際には、 鎮房へ降伏を勧める使者を4度にわたって務めました。
城井家は兵站を断たれたため、嫡男の城井朝房と 鎮房の13歳になる娘の鶴姫を人質に出すことになりました。
この功績により、 黒田長政から清光の刀と1500石を与えられました。
文禄の役でも戦功を挙げたが、三宅家中の者が陣所で小屋を一軒焼く火災を起こしてしまい、それまでの功績から切腹は免れたものの、恩賞としての加増はされませんでした。
関ヶ原の戦いでは 如水に従って豊後で戦い活躍します。
筑前入国後、若松城の城主となる
関ヶ原の戦いの功績により、慶長6年(1601年 三宅家義が54歳の頃)黒田家が筑前に入国します。
筑前の東に位置する豊前には、 長政と仲の悪い 細川忠興がいるため、豊前との国境沿いに出城を6つ築きます(福岡六端城)。
福岡六端城は黒田六端城や筑前六端城とも呼ばれ、すべて本城である福岡城より東側に設けられ、麻底良城を除いてはすべて豊前国との国境に構えられています。
この福岡六端城の一つの若松城の城代として、三宅家義が3600石を拝領します。
三宅家義は3600石のうち600石は与力4人に与え、また船頭・舵子(加子・水主)を多く抱え、禄高に比して配下は多勢でした。
順調に出世しています!
若松城は海に面している戸畑と若松の間に浮かぶ中島に築かれており、筑前領の表玄関に当たる北九州市若松~戸畑の洞海湾の開港口という海路において極めて重要な箇所に位置していました。
三宅家義は船手衆(水軍を指揮する指揮官)のひとりであったので、この海に面した城を任されたのですね。
若松や代官を務めた山鹿・芦屋といった土地は、数多くの大船を繋留することのできる天然の良港で、正保期において若松は約200艘、山鹿・芦屋は60~70艘の大船を繋留することが可能でした。
当時の若松城は、洞海湾に架かる若戸大橋の戸畑寄りの橋桁の下に見える岩礁の当たりにあったと言われています。
著者は若戸大橋を車で渡ったことがあります。その時は、若松城があったと知らなかったので、また行きたいと思います。
ちなみに若松城は幕末には砲台も設けられていたようであるが、明治14年の洞海湾修築工事の一環で島は削り取られ、完全に消滅しました。
現在も若松と戸畑との間に舟渡があり、江戸時代にはここに州口番所が設けられて人や品物の出入りを監視されていたようです。
中島は戸畑と若松を結ぶ若戸大橋付近にあったという。
その後、関東・関西を抑える水軍の長として、山鹿・芦屋の代官料1万石を預けられ、水軍を統括する船手頭にも任命されています。
taka
船手頭なので水軍の全ての指揮官ということですね。海上幕僚長!
三宅家義の晩年
慶長9年(1604年 三宅家義が57歳の頃)、黒田如水の死後、長政により「若狭守」の受領名を与えられました。
元和5年(1619年)10月16日死去。享年72。
まとめ
いかがでしたか?
黒田二十四騎はそれぞれ個性がありますよね。
三宅家義は船手衆のひとりで筑前の表玄関の若松城の城主となりました。水軍を任されたつまり今でいう海軍総司令官となったわけですね。
相当優秀だったんでしょうね。
他の黒田二十四騎の記事もありますので是非読んでください!
面白いです。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!