武将名鑑【新信長の野望】
堀秀政(ほりひでまさ)
堀秀政(ほりひでまさ)
織田氏の家臣。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、重用される。
堀秀政 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
535 (15 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
361 (48 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
367 (45 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
258 (46 位) | ||||
合計 | 1521 (37 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 21291 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 各地で軍功を立て、徳川家康の返答係などを務めた経歴がある。文武両方において秀でている。 | ||||||||||
タイプ | 統 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 大筒 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
小牧・長久手の戦いで、不自然な銃声と一騎で伝言に来た田中吉政を不審に思い、自陣の敗北を判断。大須賀・榊原らの敵を撃退した。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自大筒部隊の包囲値をUP。 自大筒部隊の攻撃力をUP。 |
堀秀政が登場する合戦
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雑賀川の戦い(さいかがわのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年3月2日 ~ 15日
和歌山県和歌山市小雑賀一帯
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比自山砦の戦い(ひめやまとりでのたたかい) [織田信長の伊賀平定]
1581年9月10日
三重県上野市長田
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打出浜の戦い(うちではまのたたかい) [本能寺の変]
1582年6月14日
滋賀県大津市打出浜
本能寺の変後、安土城に入っていた明智光秀の重臣・明智秀満は、13日の夜に山崎の敗報を得ると、翌14日未明に軍勢を整えて近江坂本に向かう。
光秀の居城であった坂本城で再起を図ろうとしたためである。
しかしその途中の大津において、秀吉から近江への交通路遮断と光秀捜索として派遣された堀秀政と交戦する。
明智秀満は300余の兵が討ち取られ敗走し、坂本城に逃れた。
江戸時代に成立した『川角太閤 』では、このとき、戦いを避けた秀満が名馬にまたがって湖水渡りをしたとする。
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坂本城の戦い(さかもとじょうのたたかい) [本能寺の変]
1582年6月15日
滋賀県大津市下阪本
坂本城址公園
打出浜の戦いで明智秀満を破った堀秀政は、そのまま秀満の軍勢を追撃して、6月15日に坂本城に総攻撃をかける。
主君・明智光秀の敗死を知った秀満は、譜代の家臣だけで坂本城を守備し、そのほかの家臣は城から逃れさせたという。
そして秀満は相手方に家宝を贈呈した後、光秀の正室の妻木煕子・次男の定頼・三男の乙寿丸らを刺し殺し、自分の妻も刺殺し、溝尾茂朝・明智光忠らと自身の腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる。
こうして安土城に次ぐといわれた光秀の居城坂本城は、灰燼に帰したのである。
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亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。 -
長久手の戦い(ながくてのたたかい) [小牧・長久手の戦い]
1584年4月9日
愛知県愛知郡長久手町
長久手古戦場
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千石堀城の戦い(せんごくぼりじょうのたたかい) [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市名越
紀伊に向かった羽柴勢は羽柴秀次を大将として、まず根来寺の出城であった和泉千石堀城を攻める。
羽柴秀次隊には堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千の兵が加わった。
天正13年(1585年)3月21日の夕刻から総攻撃がかけられた。
まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入り二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取った。
しかし本丸は根来寺の衆徒らが鉄砲を用いてよく防いだため、豊臣秀次軍に1,000名の死者が出た。
この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという。
筒井順慶隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め翌22日に千石堀城は落城。
秀吉が助命を認めなかったため、城兵とその一族はことごとく殺害された。
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太田城の戦い(おおたじょうのたたかい) [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月24日 ~ 4月22日
和歌山県和歌山市太田
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脇城の戦い(わきじょうのたたかい) [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県美馬市脇町
木津城を落とした羽柴秀次は、中富川(吉野川)中流域を押さえる阿波脇城の攻略に向かい、黒田官兵衛・堀秀政・蜂須賀正勝・日根野弘就・前野長康らとともに包囲した。
さらに秀次は、阿波白地城にいる長宗我部元親を牽制したが、結局元親からの後詰はなかった。
脇城を守っていた元親の叔父にあたる長宗我部親吉は、水の手を断たれ、またすぐ近くの岩倉城が先に降伏したため降伏開城する。
開城後、親吉は土佐に落ちる途中の貞光川の栂橋にて、先だって長宗我部氏に領土を奪われ逼塞していた土豪の小野寺吉家一党に襲撃され殺害された。
小野寺氏を扇動したのは豊臣方の蜂須賀家政であるとされており、のちに蜂須賀氏は阿波一国が与えられ、小野寺氏は蜂須賀氏に登用されている。
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