今日は何の日?

  • ● 1546年 北条氏康が上杉憲政、上杉朝定らを破る
  • ● 1555年 織田信長が織田信友を討ち清洲城を奪取、以後の居城とする
  • ● 1556年 斉藤道三が対立していた息子・義龍に敗れ討死
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この人誰?

伊達晴宗

賤ヶ岳の戦い

1582年12月

福島正則と柴田勝家

目次[非表示]

長浜城の戦い(ながはまじょうのたたかい)

1582年12月11日 ~ 15日

滋賀県長浜市公園町

天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉丹羽長秀筒井順慶長岡 (細川) 忠興池田恒興蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。

さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政勝家に重用されることに対しても不満があった。

雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。

秀吉神戸信孝の機先を制すべく、ただちに美濃に向かう。

岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)

1582年12月20日 ~ 29日

岐阜県岐阜市大宮町

岐阜城

岐阜城

三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、羽柴秀吉と対立する信孝三法師を岐阜城から離さず、12月2日に1万人余の兵を擁して岐阜城で挙兵した。

これを謀反の口実として、秀吉は2万余の軍勢でただちに出陣。
丹羽長秀池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。

信孝と結ぶ越前北庄城の柴田勝家は積雪のため援軍を送ることができないまま、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を包囲した。

依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は伊勢の滝川一益の勧めに従い、12月20日に三法師秀吉に渡すとや母の坂氏や乳母・娘らを人質として秀吉に降伏した。
秀吉は12月29日に包囲を解く。

この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可稲葉一鉄や与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝・斎藤利堯も秀吉側に寝返った。

立花山の戦い(たちばなやまのたたかい)

1583年1月8日 ~ 1月12日

岐阜県美濃市立花

遠藤胤基

石神兵庫

遠藤利右衛門

LOSE

佐藤秀方

一柳直末

WIN

天正11年(1583年)正月、神戸信孝の命により、美濃郡上八幡城主の遠藤慶隆と美濃木越城主の遠藤胤基ら300余騎は、羽柴秀吉方についた靴尾山城主・佐藤秀方の須原砦・洞戸砦を攻略すると、長良川を挟んで蛇尾山と対峙する立花山(現美濃市)に布陣した。

1月8日、佐藤秀方から後詰を要請された秀吉は美濃金山城主の森長可池田恒興・一柳直末らをつけて送り込み、立花山を攻囲した。

これに対し遠藤慶隆信孝に救援を求める密使を送ると、信孝は守備の功労を誉め援軍派遣を約束したが援軍は来なかった。

2月には、糧道を絶たれ馬具の熊皮まで焼いて食すようになり、木尾・三日市(ともに現郡上市美並町)の住人が酒樽に米を詰め酒と称して送り、山道から陣中に運び入れて一時の急を救ったものの、攻囲はますます厳しくなり遠藤方は決死の突撃を覚悟した。
同年4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぼされ、信孝秀吉に降伏すると、佐藤秀方より軍使が来て信孝の敗北が知らされ、開城勧告がなされた。

遠藤慶隆は石神兵庫・遠藤利右衛門を人質として送り、母野(現郡上市美並町)で両軍の和議が成り遠藤氏は秀吉の配下に入った。

佐藤秀方は、この戦を機に秀吉の武将となり、武儀郡の大半を領有(石高2万5,000石といわれる)した。

長島城の戦い(ながしまじょうのたたかい)

1583年2月12日 ~ 7月

三重県桑名市長島町西外面

天正11年(1583年)2月10日、羽柴秀吉は7万5000余の軍勢で柴田勝家神戸信孝側についた滝川一益を攻略するため北伊勢に出陣した。

羽柴勢は北伊勢にある長島・峰・亀山などの諸城を攻略していった。

一益の居城である長島城へは、秀吉自ら3万余の大軍を率いて攻撃。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗北し、神戸信孝秀吉に降伏している中、一益は長島城に籠城して羽柴勢の攻撃を凌いだが、7月になって降伏開城した。

滝川一益は、織田信長から拝領した領地すべてを没収され、剃髪したのち京都で出家せざるを得なくなった。

峰城の戦い(みねじょうのたたかい)

1583年2月12日 ~ 4月17日

三重県亀山市川崎町森

滝川一益の居城である伊勢長島城の攻撃に動き出した羽柴秀吉は、2月12日に弟の羽柴秀長、甥の三好信吉(羽柴秀次)をはじめ、筒井順慶蒲生賦秀(氏郷)らに命じて一益の甥の滝川益重が守る伊勢峰城を包囲させた。

羽柴軍の猛攻を受け3月3日に亀山城が開城したあとも、益重は籠城を続けていたが兵糧も尽きかけてしまう。
4月17日、益重はついに降伏勧告を容れて開城した。
益重は峰城を北畠信雄に渡して退去している。
後に秀吉益重を召し出して奮戦を称え、領地を与え家臣とした。

亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい)

1583年2月16日 ~ 3月3日

三重県亀山市本丸町

本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。

その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。

2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉羽柴秀長羽柴秀次織田信雄掘秀政山内一豊高山右近蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。

秀吉の攻撃を受けた亀山城の滝川益氏は、3月3日に降伏し一益の拠る長島城に退く。

秀吉は亀山城の新たな城主に関一政を置いた。

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)

1583年4月20日 ~ 21日

滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬

賤ヶ岳から見下ろす余呉湖

賤ヶ岳から見下ろす余呉湖

北庄城の戦い(きたのしょうじょうのたたかい)

1583年4月23日 ~ 24日

福井県福井市中央

岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)

1583年4月25日

岐阜県岐阜市大宮町

金華山(岐阜城)から眺める岐阜市の街並み

金華山(岐阜城)から眺める岐阜市の街並み

天正10年(1582年)12月の岐阜城の戦いで羽柴秀吉に降伏していた神戸(織田)信孝は、柴田勝家が賤ヶ岳に出陣したとの報に接して再び挙兵した。

これにより安土に送られていた信孝の母と妻子6人が処刑されてしまう。

その後、滝川一益を攻撃していた兄の北畠信雄に岐阜城を包囲され、4月23日に北庄城の戦いで柴田勝家を失うと、28日にやむなく開城した。

一説では、降伏したのではなく信雄信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させたという。

信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、知多半島の内海大御堂寺(野間大坊)に送られ、自刃に追い込まれることになった。

信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれている。

神戸城の戦い(かんべじょうのたたかい)

1583年5月

三重県鈴鹿市神戸本多町

林正武

WIN

小島民部少輔

LOSE

天正10年(1582年)7月、伊勢神戸城主・神戸(織田)信孝が岐阜城に移ったあと、神戸城には信孝の異父兄・小島民部少輔が入っていた。

天正11年(1583年)4月の岐阜城の戦いで弟の信孝を自刃に追込んだ北畠(織田)信雄信孝の遺領を継ぐと、家臣の林正武に神戸城を攻めさせた。

5月、実力で小島民部少輔から神戸城を奪取した林正武は、子の十蔵に神戸氏の名跡を継がせ、自らも神戸氏を称するようになった。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬