羽柴秀吉の紀伊平定
羽柴秀吉の紀伊平定
1585年3月
羽柴秀吉と根来寺
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千石堀城の戦い(せんごくぼりじょうのたたかい)
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市名越
紀伊に向かった羽柴勢は羽柴秀次を大将として、まず根来寺の出城であった和泉千石堀城を攻める。
羽柴秀次隊には堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千の兵が加わった。
天正13年(1585年)3月21日の夕刻から総攻撃がかけられた。
まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入り二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取った。
しかし本丸は根来寺の衆徒らが鉄砲を用いてよく防いだため、豊臣秀次軍に1,000名の死者が出た。
この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという。
筒井順慶隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め翌22日に千石堀城は落城。
秀吉が助命を認めなかったため、城兵とその一族はことごとく殺害された。
積善寺城の戦い(しゃくぜんじじょうのたたかい)
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市橋本
千石堀城を攻撃したのと同じ3月21日夕刻、羽柴勢は細川藤孝、細川忠興・蒲生氏郷・大谷吉継・稲葉典道・筒井定次・伊藤長弘・佐々行政らは地蔵堂丸山古墳に陣を置き、根来寺の出城である和泉積善寺城を攻めた。
根来寺衆徒が鉄砲などで反撃を試みたため、力攻めが得策でないと判断した秀吉は、貝塚御坊(願泉寺)のト半斎了珍に和睦を仲介させる。
これに根来衆が応じたため、翌22日に積善寺城は開城した。
澤城の戦い(さわじょうのたたかい)
1585年3月21日 ~ 23日
大阪府貝塚市澤
羽柴秀吉は、積善寺城の支城である和泉澤城の攻略を高山右近・中川秀政らに命じた。
3月21日から攻撃が始められたが、積善寺城と同じように、秀吉は貝塚御坊のト半斎了珍に和睦を仲介させる。
これに応じ23日に澤城は開城した。
一命を助けられた城兵は、紀伊の雑賀に落ちのびていった。
根来寺の戦い(ねごろじのたたかい)
1585年3月23日
和歌山県岩出市
太田城の戦い(おおたじょうのたたかい)
1585年3月24日 ~ 4月22日
和歌山県和歌山市太田
この合戦に登場する武将
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豊臣秀次 (とよとみひでつぐ)
豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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筒井順慶 (つついじゅんけい)
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
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田中吉政 (たなかよしまさ)
豊臣家臣。はじめ宮部継潤に属す。豊臣秀次の家老を務め三河岡崎5万石を領した。関ヶ原合戦では東軍に属し石田三成を捕らえ、筑後柳川32万石を領した。
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大谷吉継 (おおたによしつぐ)
豊臣家臣。関ヶ原合戦で西軍に属す。親友・石田三成のために病をおして奮戦、藤堂高虎の軍を撃退するが、寝返った小早川秀秋軍に攻められ敗北、自害した。
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稲葉典通 (いなばのりみち)
豊臣家臣。貞通の長男。九州征伐の際、主君・秀吉の勘気を蒙り蟄居するが、のちに復帰し、各地の合戦に従軍。父の死後家督を継ぎ、大坂冬の陣に出陣した。
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筒井定次 (つついさだつぐ)
豊臣家臣。慈明寺順国の子。叔父・順慶の養子となり、家督を継ぐ。のち素行不良のため改易された。大坂冬の陣の際、大坂方に内通した罪で自害させられた。
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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細川忠興 (ほそかわただおき)
織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属した。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。
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蒲生氏郷 (がもううじさと)
織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。
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高山右近 (たかやまうこん)
織田家臣。高槻城主。友照の子。父と同じくキリスト教に入信する。各地の合戦で活躍するが、後に改宗を拒否したため改易され、幕府の命で呂宋へ追放された。
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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太田定久 (おおたさだひさ)
紀伊の豪族。太田城主。雑賀党と抗争を繰り広げた。小牧長久手合戦の際は徳川家康の招きに応じて戦う。豊臣秀吉の紀州征伐では居城を水攻めされ、敗れた。