武将名鑑【信長の野望 新生】
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)
豊臣秀次 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
43 (1649 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
58 (903 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
33 (2094 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
47 (1454 位) | ||||
合計 | 181 (1844 位)2201人中 |
豊臣秀次 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 宮部吉継 三好信吉 羽柴信吉 羽柴秀次 吉継 信吉 | ||||
幼名 | 万丸 | ||||
仮名・通称 | 治兵衛 三好孫七郎 治兵衛 次兵衛尉 二兵衛 | ||||
渾名 | 筑前おヰさま 殺生関白 豊禅閤 | ||||
法号・戒名 | 道意 瑞泉寺殿高厳一峯道意 善正寺殿高岸道意大居士 | ||||
父 | 三好一路(弥助) | ||||
養父 | 宮部継潤 | ||||
母 | 瑞竜院日秀(とも) | ||||
配偶者・正室 | 若政所(池田恒興の娘) | ||||
側室1 | 一の台(菊亭晴季の娘) | ||||
側室2 | 駒姫(お伊万の方・最上義光の娘) | ||||
側室3 | 於妻御前(四条隆昌の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1568年 | 豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。 | |||||||||
死亡年 | 1595年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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人脈 | 遠国登用に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 15 |
豊臣秀次が登場する合戦
-
峰城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月12日 ~ 4月17日
三重県亀山市川崎町森
滝川一益の居城である伊勢長島城の攻撃に動き出した羽柴秀吉は、2月12日に弟の羽柴秀長、甥の三好信吉(羽柴秀次)をはじめ、筒井順慶・蒲生賦秀(氏郷)らに命じて一益の甥の滝川益重が守る伊勢峰城を包囲させた。
羽柴軍の猛攻を受け3月3日に亀山城が開城したあとも、益重は籠城を続けていたが兵糧も尽きかけてしまう。
4月17日、益重はついに降伏勧告を容れて開城した。
益重は峰城を北畠信雄に渡して退去している。
後に秀吉は益重を召し出して奮戦を称え、領地を与え家臣とした。 -
亀山城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。 -
長久手の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年4月9日
愛知県愛知郡長久手町
長久手古戦場
-
千石堀城の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市名越
紀伊に向かった羽柴勢は羽柴秀次を大将として、まず根来寺の出城であった和泉千石堀城を攻める。
羽柴秀次隊には堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千の兵が加わった。
天正13年(1585年)3月21日の夕刻から総攻撃がかけられた。
まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入り二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取った。
しかし本丸は根来寺の衆徒らが鉄砲を用いてよく防いだため、豊臣秀次軍に1,000名の死者が出た。
この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという。
筒井順慶隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め翌22日に千石堀城は落城。
秀吉が助命を認めなかったため、城兵とその一族はことごとく殺害された。
-
木津城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月8日
徳島県鳴門市撫養町木津
和泉・大和・紀伊の兵3万余を率いた羽柴秀長は、堺から淡路洲本に上陸すると、明石から洲本へ向かった羽柴秀次隊と合流し、天正13年(1585年)長宗我部元親方の阿波木津城を攻撃した。
木津城は元親の養女を娶り一門となっていた東条関兵衛が守るも、8日間後に水の手を断たれて落城した。
関兵衛は脱出し土佐落ちたが、降伏を認めない元親によって敗戦の責を問われ、土佐浦戸城で自刃させられた。
-
牛岐城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県阿南市富岡町トノ町
木津城を落とした羽柴勢の主力が一宮城および脇・岩倉城に向かうと、一手は阿波九城の一つであり阿波南方最大の軍事拠点である阿波牛岐城攻めに向かった。
長宗我部元親は実弟・香宗我部親泰を牛岐城に入れて阿波を統括させていた。
しかし香宗我部親泰は羽柴勢の猛攻を防ぎきることができずに開城し、土佐に逃れた。
-
脇城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県美馬市脇町
木津城を落とした羽柴秀次は、中富川(吉野川)中流域を押さえる阿波脇城の攻略に向かい、黒田官兵衛・堀秀政・蜂須賀正勝・日根野弘就・前野長康らとともに包囲した。
さらに秀次は、阿波白地城にいる長宗我部元親を牽制したが、結局元親からの後詰はなかった。
脇城を守っていた元親の叔父にあたる長宗我部親吉は、水の手を断たれ、またすぐ近くの岩倉城が先に降伏したため降伏開城する。
開城後、親吉は土佐に落ちる途中の貞光川の栂橋にて、先だって長宗我部氏に領土を奪われ逼塞していた土豪の小野寺吉家一党に襲撃され殺害された。
小野寺氏を扇動したのは豊臣方の蜂須賀家政であるとされており、のちに蜂須賀氏は阿波一国が与えられ、小野寺氏は蜂須賀氏に登用されている。
-
岩倉城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県美馬市脇町岩倉
羽柴秀次は、脇城とともに阿波随一の要害として知られていた岩倉城の攻略に取りかかる。
この岩倉城は、畿内にも勢威を誇っていた三好康長(笑岩)の属城だったもので、秀次は康長の養子だったこともあるので、養父の旧城を奪還するという意味もあった。
城将は元親の従兄弟の比江山親興(長宗我部掃部頭)で、兵の意気は軒昂であったので力攻めするのも謀略を仕掛けるのも難しい状況であった。
そこで羽柴方の黒田官兵衛はまず水攻めを仕掛けた。
近くの吉野川から水を引いて食糧を駄目にして水の補給を妨害し、その一方で城外に築かれた井楼から大砲を昼夜問わず散々に撃ちかけ、また兵たちに何度も関の声を上げさせる。
岩倉城兵は戦意喪失し戦うことなく開城した。
-
山中城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日
静岡県三島市山中新田・田方郡函南町柏谷城山
3月29日、羽柴秀次を総大将とする中村一氏・田中吉政・山内一豊・堀尾吉晴・一柳直末ら6万8000余の豊臣勢は、箱根を守る山中城を攻撃する。
山中城には、城番の松田康長のほか相模玉縄城主の北条氏勝や松田康郷・蔭山氏広・間宮康俊らが入り、3000余の兵で守っていた。間宮康俊は寄親の北条氏勝らを撤退させて、自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦したために、豊臣方も一柳直末など多くの戦死者を出した。
しかし圧倒的な戦力差を前に力攻めを行われわずか半日で落城し、北条方の松田康長・間宮康俊などの武将や2000余の城兵が討ち取られた。
城を脱出した北条氏勝は玉縄城に逃げ戻った。 -
九戸城の戦い [豊臣秀吉の奥羽平定]
1591年9月2日 ~ 4日
岩手県二戸市福岡五日町
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