武将名鑑【新信長の野望】
蒲生氏郷(がもううじさと)
蒲生氏郷(がもううじさと)
織田氏の家臣、賢秀の子。
蒲生氏郷 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
554 (12 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
385 (41 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
382 (42 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
265 (42 位) | ||||
合計 | 1586 (30 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 22000 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 主君である信長の娘を娶る。本能寺の変後に豊臣秀吉に仕え、その優秀な活躍により、陸奥国会津92万石を与えられた。その文武両道な才能は、秀吉さえも恐れるものだった。 | ||||||||||
タイプ | 統 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 大筒 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
茶道の造詣が深く、利休七哲の筆頭である。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自大筒部隊の包囲値をUP。 自大筒部隊の攻撃力をUP。 |
蒲生氏郷が登場する合戦
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峰城の戦い(みねじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月12日 ~ 4月17日
三重県亀山市川崎町森
滝川一益の居城である伊勢長島城の攻撃に動き出した羽柴秀吉は、2月12日に弟の羽柴秀長、甥の三好信吉(羽柴秀次)をはじめ、筒井順慶・蒲生賦秀(氏郷)らに命じて一益の甥の滝川益重が守る伊勢峰城を包囲させた。
羽柴軍の猛攻を受け3月3日に亀山城が開城したあとも、益重は籠城を続けていたが兵糧も尽きかけてしまう。
4月17日、益重はついに降伏勧告を容れて開城した。
益重は峰城を北畠信雄に渡して退去している。
後に秀吉は益重を召し出して奮戦を称え、領地を与え家臣とした。 -
亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。 -
峰城の戦い(みねじょうのたたかい) [小牧・長久手の戦い]
1584年3月14日
三重県亀山市川崎町森
3月14日、羽柴秀吉は蒲生賦秀(氏郷)を大将として、滝川一益と関盛信・一政父子ら1万余の軍勢で織田信雄方の伊勢峰城を攻撃させた。
峰城には、尾張蟹江城主の佐久間信栄や天野景俊ら4000余の兵が守っていた。
この峰城は、賤ヶ岳の戦いの前哨戦である峰城の戦いの舞台となったところで、城壁の修復も終わっていなかった。
城から打って出た兵300余が討ち取られるとわずか数日で落城し、佐久間信栄は夜陰に乗じて尾張に落ちていった。
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戸木の戦い(へきのたたかい) [小牧・長久手の戦い]
1584年8月14日 ~ 11月15日
三重県津市戸木町一帯
羽柴方と織田・徳川方が尾張から兵を退いたあとも、伊勢では信雄方で唯一木造城の木造具康・具政父子が羽柴秀吉に従う蒲生氏郷に抵抗を続けていた。
具政は少数の軍勢を分けるのはよくないということで居城の木造城を捨て、要害の地にあり隠居していた具康が守っていた戸木城で籠城した。
天正12年(1584年)5月に入り、蒲生軍は木造氏の支城である牧城・川方城・宮山城などを落城させ、戸木城に迫った。
木造軍1千に対して、蒲生氏郷は織田信包を総大将として、約2万の大軍で攻め掛かるも、木造勢は夜襲を仕掛けるなどしてよく守ります。
戦う名分のなくなった徳川家康も、11月21日に兵を浜松に退いたため小牧・長久手の戦いは終結した。
木造軍には強者が揃っていたとされ、蒲生氏郷は自領を平定した後、木造氏旧臣のうち勇士を召し抱えたとされている。
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積善寺城の戦い(しゃくぜんじじょうのたたかい) [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市橋本
千石堀城を攻撃したのと同じ3月21日夕刻、羽柴勢は細川藤孝、細川忠興・蒲生氏郷・大谷吉継・稲葉典道・筒井定次・伊藤長弘・佐々行政らは地蔵堂丸山古墳に陣を置き、根来寺の出城である和泉積善寺城を攻めた。
根来寺衆徒が鉄砲などで反撃を試みたため、力攻めが得策でないと判断した秀吉は、貝塚御坊(願泉寺)のト半斎了珍に和睦を仲介させる。
これに根来衆が応じたため、翌22日に積善寺城は開城した。 -
岩石城の戦い(がんじゃくじょうのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1587年4月1日
福岡県田川郡添田町
天正15年(1587年)3月28日、豊臣秀吉は関門海峡を渡ってついに九州に上陸した。
この日のうちに豊前小城城に入った秀吉は、29日に馬ヶ岳城に移り、ここを本陣として筑前古処山城主・秋月種実の属城である岩石城を攻撃した。
天険の要害で秋月家の属城で最も堅牢な岩石城を守る熊井越中守久重ら3000の兵は防戦に努めたものの、羽柴秀勝を大将とする蒲生氏郷・前田利勝(利長)らの猛攻を受け、わずか1日で落城し熊井久重は討死している。
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韮山城の戦い(にらやまじょうのたたかい) [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日 ~ 6月24日
静岡県伊豆の国市韮山
LOSE
韮山城から見た城下
山中城の戦いが行われていた3月29日、織田信雄を中心とする長岡(細川)忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら4万4000余の軍勢は、伊豆韮山城を包囲する。
韮山城には、北条氏政の弟の北条氏規や朝比奈泰栄・江川英吉・富永政家ら率いる3640余の兵が籠城していた。
守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要で北条氏の所縁深い韮山城を守ることとなった。
まず秀吉から開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するも氏規はこれを拒否し徹底抗戦する。
小笠原丹波は包囲するだけの大軍に不甲斐なく思い、帰陣すると勝手に攻撃し、北条方の江川英吉に撃退され討死した。
氏規は3ヶ月近くにわたって籠城したが、徳川家康の斡旋により6月24日についに降伏開城した。
秀吉/a>は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らの最小限の兵力だけ残し韮山城の包囲を続けさせ、主力の織田信雄らを小田原城に向かわせた。
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佐沼城の戦い(さぬまじょうのたたかい) [豊臣秀吉の奥羽平定]
1590年8月18日
宮城県登米市迫町佐沼
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名生城の戦い(みょううじょうのたたかい) [豊臣秀吉の奥羽平定]
1590年11月16日
宮城県大崎市古川諏訪
蒲生氏郷が登場する記事一覧
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