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横山喜内(よこやまきない)は何をした人?蒲生家を何度も何度も出入りする図太い精神【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好き管理人のtakaです。
今回紹介するのは蒲生家臣・横山喜内(よこやまきない)です。蒲生郷舎(がもうさといえ)・坂源兵衛(さかげんべえ)ともいう。
同じく蒲生氏の元家臣の蒲生頼郷(がもうよりさと)がおり、こいつも喜内と呼ぶので混同されがちですが別人です。
関ヶ原の戦いで島左近とともに奮戦し、不利な状況の中、東軍の織田有楽を負傷させるという蒲生頼郷の話を蒲生郷舎の話として記載しているサイトがあるので注意!
この記事では蒲生郷舎を横山喜内で表記を統一します。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
蒲生家臣。九州征伐で功を立て、蒲生の姓と「郷」の字を賜り蒲生郷舎と称す。その後は石田家、藤堂家などを渡り歩きながら何度か蒲生家にも戻っている。
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横山喜内の生まれ
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1550年に設定されています。
尾張国出身で、父の蒲生郷成は織田家の関成重や柴田勝家に仕えていました。
父・郷成は元々坂氏の出身なので、坂郷成と名乗っており、横山喜内も初名は坂源兵衛でした。
蒲生家に仕える
天正11年(1583年 横山喜内が33歳の頃)、信長亡き後の実質的な後継者を争いのため賤ヶ岳の戦いが起こり、羽柴秀吉によって柴田勝家が滅びます。
柴田家臣であった父・郷成と横山喜内は共に蒲生氏郷の家臣になります。
秀吉の九州征伐で岩石城(福岡県田川郡添田町)攻めの戦功を挙げ、蒲生姓と郷舎の名を賜う。
※岩石城の戦い・・・島津氏に服属していた秋月種実の属城である岩石城を、秀吉勢の蒲生氏郷と前田利長は寡兵ながらも攻め落とした
岩石城の戦いでは、秀吉勢は鉄砲を駆使して戦ったので横山喜内は鉄砲部隊の扱いに長けていたのかもしれません。
主君・蒲生氏郷の力を恐れた秀吉は恐れ、陸奥国会津に移封させると、父・郷成、横山喜内父子は白石城(陸奥国刈田郡白石)4万石に封ぜられます。
蒲生氏郷が死亡すると、後を継いだ蒲生秀行の下、重臣間での軋轢が表面化し合戦にまで発展します(蒲生騒動)。
横山喜内は、父・郷成や兄・郷喜が蒲生家に残る中、蒲生家を出奔して浪人になり石田三成の家臣になります。
関ヶ原の戦いの後、蒲生家に舞い戻る
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると、父と兄が残った蒲生家に帰参します。
しかし蒲生家の重臣である岡重政と争い事を起こすと、追放され次に藤堂高虎に父や兄と共に仕えます。
岡重政は、石田三成の次女の夫でした。
再度蒲生家に舞い戻る
慶長18年(1613年)、蒲生秀行が死亡し忠郷が跡を継ぐと、岡重政は徳川家康の娘・振姫と対立したことで、自害させられしまいます。
そして、徳川家康の斡旋により、蒲生郷成・郷喜・郷舎父子は蒲生家に呼び戻され、蒲生家に再帰参することになりました。
舞い戻れるということは、職場での人間関係はそこまで悪くなかったのでしょうし、能力も高かったのでしょうね。
後に父・郷成は亡くなり、兄の郷喜3万石、横山喜内は三春城1万5,000石を拝領することになります。
しかし今度は蒲生家の重臣・町野幸和と対立し、蒲生家から兄弟で追放されてしまいます。
何回追放されてんねん。
またまた蒲生家に舞い戻る
10年後再び、横山喜内兄弟と町野幸和が争いを起こし、今度は町野幸和が失脚します。
横山喜内兄弟は蒲生家に復帰するものの、後に主君である蒲生忠知により、また追放されたそうです。
その後の兄弟の行方は不明ですが、蒲生忠知の死によって蒲生家が改易された後、兄弟は小浜藩主の酒井忠勝に召し抱えられたとする記録があるようです。
ゲーム「信長の野望」での横山喜内の評価
ゲーム「信長の野望 大志」での横山喜内の評価を見てみましょう。
統率 59 (847 位)
武勇 76 (202 位)
知略 79 (156 位)
内政 46 (1527 位)
外政 62 (686 位)
合計 322 (452 位)
2200人中の順位なので、特に戦闘面に関する武勇と知力が高く設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
蒲生家を何度も何度も追放・士官を繰り返した、横山喜内とその兄弟。
問題をよく起こすも、憎めないタイプの人だったのではないでしょうか?
また、数万石クラスの武将はやはり実力も伴っておりそれなりに有能だったことでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。