豊臣秀吉の奥羽平定
豊臣秀吉の奥羽平定
1590年8月
奥羽平定軍の蒲生氏郷と奥羽の葛西晴信
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佐沼城の戦い(さぬまじょうのたたかい)
1590年8月18日
宮城県登米市迫町佐沼
名生城の戦い(みょううじょうのたたかい)
1590年11月16日
宮城県大崎市古川諏訪
宮崎城の戦い(みやざきじょうのたたかい)
1591年6月24日 ~ 25日
宮城県加美郡加美町宮崎
名生城が落城したのち、大崎氏の遺臣の笠原(民部)隆親は居城の陸奥宮崎城で兵を挙げる。
秀吉から鎮圧を命じられた伊達政宗は、天正19年(1591年)6月24日、宮崎城に総攻撃をかけた。
初日から伊達の智将・浜田隆景が討ち死にし、大松沢元実も腰を撃ち抜かれるなど伊達勢の被害が甚大だった。
2日目、いつも先陣を競い合っていた伊達家臣の原田宗時と後藤信康らが行動を起こす。
後藤信康が夜にこっそり抜け出して宮崎城の石垣に取り付くと、「えらい早駆けだな」という声がした。
みてみると信康より先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。
2人は城内に忍び込むと城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱となった。
伊達勢がこの激戦を制し、宮崎城を落とす。
伊達成実は「宮崎での犠牲は少なく済ませ、早急に敵の本拠地の佐沼へ向かうべし」と主張するも、政宗は笠原隆親の降伏を認めず、他の一揆勢に対して見せしめにするため城兵ら2500余人をことごとく撫で切りにした。
政宗は、城王一族の首級80余を京都に送ったという。
政宗の主張した「徹底的な殲滅」は佐沼城でも行われることになる。
佐沼城の戦い(さぬまじょうのたたかい)
1591年6月28日 ~ 7月3日
宮城県登米市迫町佐沼
宮崎城を攻略した伊達政宗は、葛西晴信の属城であり一揆勢1万余が拠っている佐沼城に向かう。
6月28日から始まった総攻撃により、7月3日に一揆勢2500余が討たれ佐沼城は落城した。
こののち政宗は葛西・大崎の一揆勢に降伏をよびかけ、桃生郡須江山に集まった葛西氏遺臣を8月14日にまとめて討ち取った。
こうして葛西・大崎一揆は鎮圧され終結した。
九戸城の戦い(くのへじょうのたたかい)
1591年9月2日 ~ 4日
岩手県二戸市福岡五日町
この合戦に登場する武将
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蒲生氏郷 (がもううじさと)
織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。
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葛西晴信 (かさいはるのぶ)
葛西家17代当主。晴胤の次男。寺池城主。兄・親信の死後、家督を継ぐ。伊達家と結んで大崎家と戦った。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、改易された。
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伊達政宗 (だてまさむね)
伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。
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原田宗時 (はらだむねとき)
伊達家臣。18歳で兵馬の権を与えられ各地で功を立てた剛勇の士。豊臣秀吉の朝鮮派兵に従軍中、病死した。伊達騒動の主人公・原田甲斐宗輔は孫にあたる。
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後藤信康 (ごとうのぶやす)
伊達家臣。湯目重弘の子で、後藤家を継ぐ。檜原城を守り、蘆名家に備えた。知勇に秀で、合戦では必ず黄色の母衣を用いたため「黄後藤」の異名をとった。
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伊達成実 (だてしげざね)
伊達家臣。実元の子。「武」の面で主君の政宗を補佐した伊達家中随一の猛将。「英毅大略あり」と評された。晩年には徳川家光に奥州の軍談を語っている。
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豊臣秀次 (とよとみひでつぐ)
豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。
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九戸政実 (くのへまさざね)
南部家臣。信仲の子。南部晴政の死後、弟・実親を後継者に推すが敗れ、叛乱を起こす。南部信直の要請で出陣した豊臣軍相手に善戦するが敗れ、斬首された。