武将名鑑【信長の野望 新生】
蜂須賀小六(はちすかころく)
蜂須賀小六(はちすかころく)
蜂須賀小六 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
66 (525 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
76 (207 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
83 (99 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
72 (349 位) | ||||
合計 | 297 (149 位)2201人中 |
蜂須賀小六 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 正勝 利政 | ||||
幼名 | 鶴松 鶴丸 | ||||
仮名・通称 | 小六郎 彦右衛門 | ||||
法号・戒名 | 福聚院殿良巌浄張大居士 | ||||
父 | 蜂須賀正利 | ||||
配偶者・正室 | 大匠院(益田持正または三輪吉高の娘) | ||||
側室1 | 白雲院(鳥井越中守の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1526年 | 豊臣家臣。墨俣一夜城の築城に協力し、以後、秀吉の参謀として民政・調略に手腕を発揮。四国征伐後、長宗我部家への抑えとして阿波徳島18万石を領した。 | |||||||||
死亡年 | 1586年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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反攻 | 城が強行されたときに攻城部隊へのダメージ増加 | ||||||||||
修繕 | 所属城の耐久自然回復量上昇 | ||||||||||
巧言 | 他勢力との交渉に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 21 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 28 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 35 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 45 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 57 |
蜂須賀小六が登場する合戦
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鎌刃城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年5月6日
滋賀県米原市番場
元亀2年(1571年)5月6日小谷城を打って出た浅井長政は、織田方の木下秀吉が守る横山城近くに布陣すると、家臣の浅井井規に命じ、織田方に寝返った堀秀村の守る箕浦城とその家老である樋口直房の守る鎌刃城を攻めさせた。
兵力は本願寺法主・顕如の檄を受けて信長を共通の敵とする江北の一向一揆勢も加えて約5000人であった。
横山城の南方7kmほどに位置する鎌刃城は、横山城の背後を固める織田方の重要な拠点であったが、浅井勢の本隊に横山城を牽制されているため救援のために割く兵力は限られていた。
秀吉は蜂須賀政勝・前野長康らと共に130の手勢を率いて鎌刃城の救援に赴く。
鎌刃城の救援に成功すると、鎌刃城の城兵とともに箕浦に向かった。
その後樋口直房は横山城を任され、織田家にかなりの重きに扱われることになる。
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箕浦の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年5月6日
滋賀県米原氏箕浦
鎌刃城の救援に成功した木下秀吉は、堀秀村とその家老の樋口直房らとともに、箕浦におかれていた浅井方の陣を襲撃する。
浅井方が湖北一向一揆の加勢を得て5000余の大軍を擁していたのに対し、横山城に主力をおいてきた織田方は鎌刃城の兵と合わせても500余だったという。
しかし果敢に浅井井規隊を切り崩し、ついに浅井勢を敗走させた。
琵琶湖の湖岸伝いで逃れた浅井井規隊は八幡の辺りで一旦は持ちこたえて反撃を試みたが、秀吉隊の猛追に再び崩れ、小谷城に逃ちていった。
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長水城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1580年5月9日 ~ 10日
兵庫県宍粟市山崎町宇野
英賀城を落とした羽柴秀吉は天正8年(1580年)4月24日に、依然として織田方に抵抗を続ける宇野政頼・祐清父子を討つことにした。
まず支城の篠の丸城を攻め落とす。
天険の要害である長水山城を力攻めをせず、麓を焼き払い要所に砦を築くいて完全包囲した。
蜂須賀小六らの兵を残して秀吉は三木氏攻略のために姫路に引き返している。
城兵の疲労をまっていた秀吉軍は、5月9日に至り総攻撃を開始、翌10日に城内の内通者によって、長水城は火を発し落城した。
城主の宇野政頼・祐清父子は、ひそかに城を脱出して鷹ノ巣を越えて千草に到着したが、おりからの雨で千種川は洪水で渡ることが出来ず、 秀吉軍の蜂須賀正勝・荒木平大夫・神子田半左衛門らの軍勢に追われ、宇野一族をはじめ長水勢はことごとく討死した。
これにより播磨は秀吉によって平定されたのである。
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宮地山城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 5月2日
岡山県岡山市北区足守
備中高松城主・清水宗治の攻略を決めた羽柴秀吉は、峰須賀正勝と黒田官兵衛らに高松城の支城にあたる備中宮地山城の乃美元信を誘降するよう命じるが、小早川隆景への忠義は揺らがず失敗する。
そのため秀吉は、4月14日から冠山城とともに宮地山城を包囲した。
4月25日に冠山城が落ちると、宇喜多直家の家臣・信原内蔵允が宮地山城の船木藤左衛門の内応に成功し、使者として宮路山城に入り和睦交渉が行われた。そして5月2日、水の手を断たれていたこともあり元信は降伏し宮地山城を退去した。
これにより残る高松城の支城は鴨(加茂)城のみとなった。
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脇城の戦い [羽柴秀吉の四国平定]
1585年7月15日
徳島県美馬市脇町
木津城を落とした羽柴秀次は、中富川(吉野川)中流域を押さえる阿波脇城の攻略に向かい、黒田官兵衛・堀秀政・蜂須賀正勝・日根野弘就・前野長康らとともに包囲した。
さらに秀次は、阿波白地城にいる長宗我部元親を牽制したが、結局元親からの後詰はなかった。
脇城を守っていた元親の叔父にあたる長宗我部親吉は、水の手を断たれ、またすぐ近くの岩倉城が先に降伏したため降伏開城する。
開城後、親吉は土佐に落ちる途中の貞光川の栂橋にて、先だって長宗我部氏に領土を奪われ逼塞していた土豪の小野寺吉家一党に襲撃され殺害された。
小野寺氏を扇動したのは豊臣方の蜂須賀家政であるとされており、のちに蜂須賀氏は阿波一国が与えられ、小野寺氏は蜂須賀氏に登用されている。
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