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戦国時代の結婚について【戦国時代の暮らし】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回は戦国時代の結婚について記載していきたいと思います。
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
大便の役割を果たした戦国時代の政略結婚
戦国時代の結婚は、恋愛の延長ではなく、政治的な契約を意味することが多い。
つまり「大使」の意味を持つものであった。
政治的に重要な役割を持った戦国大名の娘たち。
その政略結婚のパターンは、大きく3つに分類される。
- 対立または対立相手と同盟を結ぶ
- 強大な相手に服従する
- 家臣団との結束を高める
対立または対立相手と同盟を結ぶ
1つ目は戦国大名同士がほぼ対等な関係にあり、同盟的な意味を持つ場合である。
なかには、幼い子供同士であっても結婚させるケースも多くみられた。
例としては、小牧・長久手の戦い後に秀吉の異父妹である朝日姫が、徳川家康の正室となりました。
これは敵対している同格の相手と和平の意味合いが強いですね。
強大な相手に服従する
2つ目は弱小の大名が従属の証として、より大きな戦国大名のもとへ娘を嫁がせた場合。
多くは強豪大名の側室として嫁がせることが一般的であった。
家臣団との結束を高める
3つ目は自らの家臣に娘を嫁がせる場合である。
下克上の多かった乱世にあって、家臣といえどもより強固な信頼関係が必要とされていた。
例としては、豊臣秀吉の家臣の黒田官兵衛の嫡男の黒田長政は、同じく秀吉家臣の蜂須賀小六の娘の糸姫と婚姻を結んだ。
黒田官兵衛自身も、小寺家臣時代に、同じく小寺家臣の櫛橋伊定の娘の光と婚姻した。
秀吉家臣の大谷吉継の娘・竹林院は、秀吉家臣の真田幸村に嫁ぎ、その甲斐があったのか真田幸村は大谷吉継が属する西軍についています。
戦国女性を代表する男勝りな寿桂尼と小松姫
また、そういった政略結婚は必ずしも女性が男性に服従する形式のものではない。
自分だけの財産を所有する女性や市に店を構えたり、高利貸しを行ったり、経済活動を営む女性もいたという。
さらに、女性でありながら一国一城の主人となった「女城主」もいた。
豊後の戦国大名・大友宗麟のもとで活躍した名将・立花道雪。その娘の誾千代は、父より家督を譲り受け立花城の城主となった。
城主ではないが、男をも凌ぐ指導力を発揮した女性もいた。
「女戦国大名」「尼御台(あまみだいどころ)」と呼ばれた寿桂尼や、徳川四天王として名を馳せた本多忠勝の娘・小松姫が有名だ。
公家出身の寿桂尼は、夫の今川氏親が死去すると、幼い嫡男の氏輝の後見人となり政務を司った。
さらに氏輝の死後、義元を還俗させ家督を継がせることに成功。
一方、小松姫は徳川家康の養女となった後、政略結婚で真田信幸に嫁いだ。
関ヶ原の戦いの前、夫が留守の沼田城へ、敵方についた信幸の父・昌幸が訪れた際、鎧姿で現れ入場を断ったとの話が残る。
まとめ
いかがでした?
現代とは違い、戦国時代の武士の家に生まれた女性は政治的なうねりに飲み込まれました。
それでも幸せな人生を送る女や、不本意な状態で一生を終える女がいます。
現代の方がなんか自由恋愛でいいですね。
それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
戦国時代のすべてがわかる本