武将名鑑【新信長の野望】
鍋島直茂(なべしまなおしげ)
鍋島直茂(なべしまなおしげ)
龍造寺氏の家臣、関ヶ原の戦いで東軍に属し、肥前の支配権を得る。
鍋島直茂 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
644 (9 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
418 (37 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
453 (23 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
322 (28 位) | ||||
合計 | 1837 (11 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 33343 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 兄弟の契りを結んだ龍造寺隆信を補佐し、沖田綴の戦い後は隆信の子の補佐役として徐々に実権を掌握した。関ヶ原の戦い後に隆信の弟と幕府の承認を得て、佐賀藩の藩祖となる。 | ||||||||||
タイプ | 統 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 大筒 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
豊臣秀吉に「天下を取るには、勇気と知恵はあるが大気が無い」と評された。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
統率が高いため、最大指揮兵力が多い。 自大筒部隊の包囲値をUP。 主将として出陣すると、部隊兵数が上昇する奥義が強力! 引き直しガチャで取得可能。 |
鍋島直茂が登場する合戦
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村中城の戦い(むらなかじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1570年3月27日 ~ 10月3日
佐賀県佐賀市城内
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横造城の戦い(よこぞうじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1576年2月6日
佐賀県鹿島市常広・中村
有馬氏は、長崎県南部の島原半島を本拠として高来彼杵・松浦・杵島・藤津の5郡を支配下におく大名であったが、有馬晴信の代には龍造寺隆信の圧迫を受けていた。
天正4年(1576年)正月、晴信は自ら大軍を率いて藤津に出陣すると、松岡城・横造城・鷲巣城・鳥付城で龍造寺勢の侵攻に備える。
しかし龍造寺氏の攻撃を受け2月6日に数千人の兵により落城すると、ほかの城も開城し、松岡城に在城していた晴信は全軍を島原半島に引きあげさせた。
その後は鍋島信房(直茂)が横造城に入った。
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萱瀬城の戦い(かやぜじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1577年6月20日
長崎県大村市中岳町
天正5年(1577年)6月、龍造寺隆信は鍋島信生(直茂)を先陣とした8,000の大軍で大村純忠の居城である肥前三城を攻撃するため伊万里を出陣した。
このとき龍造寺氏に降った勝尾嶽城主の松浦鎮信や武雄城主の後藤貴明も龍造寺軍に参陣している。
大村純忠の軍は兵300という寡兵ながらも萱瀬城で迎え撃つも龍造寺軍に降伏し、隆信の子の江上家種に純忠の娘が嫁ぐという条件で和睦した。
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今山城の戦い(いまやまじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年3月
福岡県大牟田市今山
天正6年(1578年)の高城河原の戦いに敗れた豊後の大友宗麟の勢威が衰えると、これを好機ととらえた龍造寺隆信は本格的に筑後への侵攻を図った。
天正7年(1579年)3月、隆信は23000の大軍を率いて筑後に出陣した。
まず筑後鷹尾城の田尻鑑種が降伏し、次に筑後今山城主の三池鎮実を撃つため進軍した。田尻鑑種と三池鎮実は姻戚関係にあったので、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。
龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今山城に攻めかかった。
先陣は田尻鑑種とし、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。
三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦し、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。
夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。
この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、風雨にまぎれて逃亡し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。
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筒ヶ嶽城の戦い(つつがだけじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年3月
熊本県荒尾市府本
三池城を攻略した龍造寺隆信は、家臣の鍋島直茂に2000余の軍勢をつけ、肥後の小代親忠を攻撃させた。
親忠が縁戚にあたる三池鎮実に援軍を送るなどして、龍造寺氏に抵抗する姿勢をみせたためである。
兵を率いて肥後に入った鍋島直茂は三池城の戦いで三池氏を攻略すると、次は小代一族の小代越前守らが守る肥後梅尾城を落とし、小代氏の本城である筒ヶ嶽城を包囲する。
城兵100余が討死するなか、小代親忠・親泰父子は降伏開城し龍造寺隆信の軍門に降った。
その後小代親忠・親泰は、龍造寺軍の肥後平定で活躍する。
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山下城の戦い(やましたじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1579年4月9日 ~ 11月3日
福岡県八女郡立花町北山山下
天正7年(1579年)4月8日、龍造寺隆信は肥前・筑前の軍勢2万余で、蒲池鑑広が守る筑後山下城を包囲する。
筑後柳川城主の蒲池鎮竝は龍造寺氏に従っていたが、同族で筑後では一二を争う規模の豪族である蒲池鑑広は抵抗を続けていたからである。
9日から城攻めを開始した龍造寺勢は、翌10日には城下を焼き払う。
鑑広は周囲に砦を築いて籠城を続けていたが、11月3日、 筑前で秋月氏らと戦っていた大友勢が毛利勢の動きを見て本国の豊後に帰陣したため降伏した。
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猫尾城の戦い(ねこおじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1582年1月
福岡県八女郡黒木町北木屋
天正9年(1581年)5月、 龍造寺隆信がすでに帰服していた筑後柳川城主の蒲池鎮漣を村中城に呼び寄せて謀殺し、鎮漣の一族を殺戮し、柳川の蒲船津城にいた弟の蒲池益種も討ち死にする。
これにより、猫尾(黒木)城主の黒木家永ら筑後の国衆が龍造寺氏に反旗を翻す。
天正10年(1582年)正月、龍造寺氏の家臣の鍋島信生(直茂)ら5000余の兵で筑後に向かうと猫尾城を兵糧攻めにする。
抗戦の不利を悟った家永は、筑後発心城主の草野家清を通じて降伏し、嫡子の四郎丸を人質として龍造寺氏に差し出し和睦した。
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蒲船津城の戦い(かまふなつじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1582年1月
福岡県三橋町蒲船津
編尾城を攻略した鍋島信生(直茂)率いる龍造寺勢は、勢いに乗じて筑後蒲船津城を攻撃する。
蒲船津城は龍造寺隆信に謀殺された柳川城主の蒲池鎮竝(鎮漣)の支城で、猫尾城主・黒木家永の実弟の蒲池益種が守っていた。
益種は城兵200余とともに籠城したが、わずか1日で落城し益種は討ち取られた。
城を落とされ逃げ場を無くした城兵達は、塩塚城を目指し敵の包囲網を突破するも、鍋島勢によって大半の兵が討ち取られてしまった。
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鷹尾城の戦い(たかおじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1582年10月4日 ~ 1583年11月27日
福岡県柳川市大和町鷹ノ尾
天正8年(1580年)の柳川城の戦いに功のあった筑後鷹尾城主・田尻鑑種が、 天正10年(1582年)9月に龍造寺隆信に反旗を翻し島津方についた。
このため人質として龍造寺氏に送られていた一族の田尻鎮清の子は、見殺しにされてしまう。
鑑種は諸所を放火の上で居城の鷹尾城に籠城した他、縁戚をそれぞれ江ノ浦城・濱田城・津留城・堀切城に配置し、同じく籠城させた。
肥前・筑後の軍勢3万余を率いて出陣してきた隆信の家臣・鍋島信生(直茂)に対し、鑑種は島津義久に援軍の依頼をし、義久は帖佐宗光・田尻但馬ら300余を鷹尾城へ送っている。
支援を得ながら籠城を続けたが、天正11年(1583年)11月に降伏開城した。
援軍の島津勢が退去すると、龍造寺隆信は鷹尾城を破却した。
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辺春城の戦い(へばるじょうのたたかい) [龍造寺隆信の肥前・筑後平定]
1582年10月14日 ~ 1583年3月11日
福岡県八女郡立花町上辺春
筑後鷹尾城主の田尻鑑種が龍造寺隆信に反旗を翻すと、筑後辺春城主の辺春紹真(紹心)も鑑種に呼応して挙兵し、豊後の大友宗麟からの援軍を引き入れようとした。
これに危機感を覚えた鍋島信生(直茂)率いる龍造寺勢は30000余の兵をもって天正10年(1582年)10月14日に辺春城を包囲し、合わせて田尻氏の鷹尾城への攻撃を仕掛けた。
堅城の辺春城で5ヶ月間近く籠城を続けたが、天正11年(1583年)3月11日に紹真は後詰軍の当てが期待出来ずこれ以上の抗戦の不利を悟り、辺春城から逃げ出した。
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慶州城の戦い(キョンジュじょうのたたかい) [文禄の役]
1592年4月20日
慶尚北道慶州市
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臨津江の戦い(イムジンガンのたたかい) [文禄の役]
1592年5月18日
京畿道坡州市
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柳川城の戦い(やながわじょうのたたかい) [九州の関ヶ原]
1600年9月 ~ 10月25日
福岡県柳川市本城町
黒田如水は加藤清正や鍋島直茂らとともに、筑後柳川城の立花宗茂を包囲する。
宗茂は、関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦っており、島津氏とともに大坂を脱出して帰国したのち、居城の柳川城に籠城していた。
柳川城の堅牢ぶりや宗茂の猛勇を知る3将は宗茂を説得し、10月25日降伏開城を受諾させた。
その後宗茂は、一命を助けられたうえで改易されたが、のち再び大名に取り立てられ柳川藩10万石余の藩主となっている。
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