九州の関ヶ原
九州の関ヶ原
1600年9月
黒田官兵衛と大友義統
目次[非表示]
木付城の戦い(きつきじょうのたたかい)
1600年9月10日 ~ 12日
大分県杵築市杵築
1600年、関ヶ原の戦いの際に、大友義統は西軍に属して再起を図ります。
西軍の総大将である毛利輝元の支援を受けて長門下関から豊後立石に渡海した大友吉統は、木付城(杵築城)を攻撃する。
この木付城は、丹後宮津城主・長岡(細川) 忠興の飛び地だったところで、忠興の家臣である松井康之・有吉立行を派遣して統治に当たらせており豊後において唯一の東軍方だった。
豊後に上陸すると、1600年9月10日夜、吉弘統幸ら岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生、200騎が木付城を攻める。
二の丸にいた野原太郎右衛門が大友勢に内通して城下に火が掛けられます。
大友勢の攻撃を受けた松井康之・有吉立行らは、200余の兵とともに防戦に努める一方、豊前中津城の黒田如水(黒田官兵衛)に救援を安請する。
9月9日に大友勢の立石布陣の報を受けた如水は杵築城支援の先遣隊(一番備:久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を頭に約千人。二番備:井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を頭に約千人)を派遣し自らも追って出陣した。
先遣隊は10日に赤根峠を越え、12日に木付に到着、如水の本隊を待てとの指示に従わずに13日の朝より鉄輪で合流した黒田先遣隊と杵築勢は石垣原へ兵を進めた。
如水の本隊は先遣隊と同日の9日に中津城を出陣し、宇佐高森城(黒田孝利)・高田城(竹中重利)を経て10日に赤根峠を越えて国東に進出し富来城(垣見一直)を包囲した。
当時旗幟を鮮明にしていなかった重利は、子の竹中重義に兵200人を付けて黒田軍に従軍させた。
大友軍が杵築城を攻撃すると、黒田軍は攻撃予定であった富来城(垣見一直)を後回しにして、合戦のあった13日には頭成まで家臣の井上九郎兵衛・時枝平太夫を進出させた。
黒田軍本隊は12日には安岐城を攻め、13日に打って出てきた熊谷直盛の軍を撃破し、杵築城の救援に向かった。
松井康之・有吉立行らは、残すは本丸のみと言う所まで押し込まれましたが、松井康之が相原山に伏兵を置いて柴田統生を討取るなど反撃します。
落城が迫ったとき、黒田官兵衛の援軍が着陣したため、大友勢は兵を退いた。
石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)
1600年9月13日
大分県別府市北石垣・南石垣一帯
長岡(細川)忠興の属城の豊後木付城を攻めていた大友義統は、黒田如水(官兵衛)からの援軍が迫るのをみて兵を退いた。
そこで、木付城を守っていた忠興の家臣である松井康之・有吉立行らは、黒田勢とともに木付城を出陣し、大友勢を討とうとした。
9月13日、出撃した木付勢は実相寺山に布陣。
黒田軍先遣隊の一番備は実相寺山と角殿山の間道を抜けて石垣原に布陣していた大友勢と昼頃から衝突し、木付勢も後に戦闘に加わった。
この衝突で大友勢の吉弘統幸は打ち破られたと見せかけて立石本陣近くまで退き、追ってきた黒田一番備は伏せていた宗像鎮統の攻撃と統幸の反撃により、黒田勢の久野次左衛門・曾我部五右衛門が討死。
今度は敗走する黒田勢を大友勢が実相寺近くまで追撃し、松井康之の陣に攻撃を掛けるが多勢と見て山麓の黒田軍の陣に矛先を変えてこれを圧倒した。
ここに黒田勢の二番備の野村市右衛門・井上九郎右衛門と木付勢が救援に駆けつけ大友勢を破った。
大友勢は吉弘統幸・宗像鎮統をはじめ500余が討ち取られ、14日には実相寺に到着した如水は首実検と軍議を行った。
同日、義統は敗戦を知って自刃しようとしたが田原親賢に諌められる。
義統は剃髪して法体となり、田原親賢を黒田軍の陣の母里友信(妻は宗麟娘)に派遣して如水に降伏し、石垣原の戦いは終了した。
宇土城の戦い(うとじょうのたたかい)
1600年9月15日 ~ 10月23日
熊本県宇土市神馬町
関ヶ原において、東西の両軍が衝突していた9月15日、九州では東軍についた加藤清正が、 西軍の小西行長の居城である肥後宇土城を攻撃する。
このとき行長は大坂に出陣しており留守だったため、宇土城は弟の小西行景らが守っていた。
実は,関ヶ原合戦のほぼ40日前,清正は家康から肥後や筑後を実力で軍事占領することを条件に両国の領有保障の約束を取り付けていたのです。
熊本方面から進軍した加藤軍は,石ノ瀬城(石小路町)を突破後,本町・新町などの城下町を焼き払い,宇土城に迫る。
清正自身は茶磨山(松山町)に本陣を置き,宇土城の南回りに兵を進め,かつて城があった西岳(西岡台,神馬町)から宇土城へ激しい攻撃を加えた。
小西行景は小鴨元清・小西如安らとともに寡兵ながら防戦に努めたが、関ヶ原での西軍の敗戦が明らかとなったため、10月23日、行景が自刃して開城されている。
こののち、宇土城の支城である八代城も開城した。
この戦いに勝利した清正は行長の領地を引き継ぐことになったのです。
富来城の戦い(とみくじょうのたたかい)
1600年9月23日
大分県国東市国東町富来浦
石垣原の戦いに勝利した黒田如水(官兵衛)は、勢いに乗じて国東半島の西軍方諸城の攻略に乗り出すと、9月23日から、豊後富来城を攻撃した。
城主の垣見家純は美濃大垣城に入っていたため、城代垣見一直らが防戦に努めていた。
城兵が500余だったにも関わらず10日間も籠城戦をするも、大垣城で主君の家純が討死したという報を受け開城した。
如水は、家臣の上原新左衛門を城番として入れ、10月4日、自身は富来を出発して豊前中津に戻った。
宮崎城の戦い(みやざきじょうのたたかい)
1600年9月29日 ~ 10月1日
宮崎県宮崎市池内町
東軍についた日向飫肥城主の伊東祐兵は、黒田如水の支援を得て、老臣・稲津掃部助重政に命じて、日向松尾(縣)城主・高橋元種の属城である宮崎城を攻めさせた。
宮崎城の権藤種盛は寡兵をもって防戦に努めたが一日で落城し、権藤種盛は自刃する。
この宮崎城の戦いの翌日、大垣城の戦いに兄の秋月種長と共に参陣していた元種は、寝返って本領安堵となった。
そのため宮崎城は元種に返還され、重政は東軍を攻めた咎で誅殺されてしまう。
柳川城の戦い(やながわじょうのたたかい)
1600年9月 ~ 10月25日
福岡県柳川市本城町
黒田如水は加藤清正や鍋島直茂らとともに、筑後柳川城の立花宗茂を包囲する。
宗茂は、関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦っており、島津氏とともに大坂を脱出して帰国したのち、居城の柳川城に籠城していた。
柳川城の堅牢ぶりや宗茂の猛勇を知る3将は宗茂を説得し、10月25日降伏開城を受諾させた。
その後宗茂は、一命を助けられたうえで改易されたが、のち再び大名に取り立てられ柳川藩10万石余の藩主となっている。
この合戦に登場する武将
-
大友義統 (おおともよしむね)
大友家22代当主。義鎮の子。島津・龍造寺両家に圧迫され、豊臣秀吉を頼り豊後1国を安堵された。しかし朝鮮派兵の際に敵前逃亡を犯したため改易された。
-
吉弘統幸 (よしひろむねゆき)
大友家臣。鎮信の子。関ヶ原合戦の際に主君・義統の西軍加担案に反対し、東軍加担を主張するが却下された。義統に従って黒田孝高の軍と戦い、戦死した。
-
松井康之 (まついやすゆき)
足利家臣。主君・義輝の横死後は細川藤孝に仕え、丹後平定戦などで活躍した。関ヶ原合戦の際は東軍に属し、豊後杵築2万6千石を得た。茶人としても著名。
-
黒田官兵衛 (くろだかんべえ)
豊臣家臣。主君・秀吉の参謀を務め、秀吉の天下統一に大きく貢献した。しかしその卓抜した戦略的手腕を恐れられ、禄高は豊前中津12万石におさえられた。
-
井上之房 (いのうえゆきふさ)
黒田家臣。黒田八虎の一人。職隆の頃より四代に仕えた忠臣。石垣原の戦いでは孝高に従って武功を挙げた。長政没後の「黒田騒動」では藩の存続に貢献した。
-
竹中重利 (たけなかしげとし)
竹中半兵衛の従兄弟。豊臣秀吉の馬廻。関ヶ原合戦では黒田官兵衛に誘われ東軍につく。戦後大分城を与えられ、港や城下を整備。現在の大分の基礎を作った。
-
母里太兵衛 (もりたへえ)
黒田家臣。後藤基次と双璧をなした家中屈指の猛将。福島正則が大杯に満たした酒を呑み干し、名槍「日本号」を拝領した。その姿は今も「黒田節」に残る。
-
加藤清正 (かとうきよまさ)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。朝鮮派兵で活躍し「虎加藤」の逸話を残す。秀吉死後は石田三成と対立、関ヶ原合戦で東軍に属し、肥後熊本52万石を得た。
-
小西行景 (こにしゆきかげ)
豊臣家臣。行長の甥。キリスト教に帰依した。関ヶ原合戦では行長の居城・肥後宇土城を守備して加藤清正軍と戦うが、西軍の敗戦を聞いて開城し、自害した。
-
垣見一直 (かきみかずなお)
豊臣家臣。金切裂指物使番を務め、豊後富来2万石を領す。関ヶ原合戦では西軍に属し美濃大垣城に籠城するが、東軍に寝返った相良頼房らによって殺された。
-
稲津重政 (いなづしげまさ)
伊東家臣。清武城主。関ヶ原合戦では西軍方の宮崎城を落とす。戦後、幕命による宮崎城返還を拒否。主君・祐慶の自害命令も拒否して居城に籠城、敗死した。
-
鍋島直茂 (なべしまなおしげ)
龍造寺家臣。清房の子。主家の発展に貢献した知勇兼備の将。主君・政家を後見して国政を執った。関ヶ原合戦で東軍に属し、戦後、肥前の支配権を獲得した。
-
立花宗茂 (たちばなむねしげ)
大友家臣。高橋紹運の子。立花道雪の娘を娶る。豊臣秀吉に「忠義と剛勇は鎮西一」と評された。関ヶ原合戦で西軍に属して改易されるが、のち旧領に復した。