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山内康豊(やまうちやすとよ)とは?兄の山内一豊よりも優秀!?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、山内一豊の弟である山内康豊(やまうちやすとよ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
山内康豊の生まれ

山内康豊像
山内康豊は、天文18年(1549年)に尾張国岩倉城主・織田信安の家臣・山内盛豊の四男として尾張国黒田城にて誕生しました。
初代土佐藩主となる山内一豊とは同母弟。
織田氏への仕官を潔しなかったため、浪々の生活を過ごしたといわれています。

四男で家を継ぐわけではないので、自由にしてこいって感じでしょう。
織田から豊臣へ
元亀3年(1572年)頃から織田信長の嫡男・信忠に仕えるも、天正10年(1582年)の本能寺の変で信忠が明智光秀の襲撃によって二条新御所で自害した際は、康豊は早々に逃げてしまったという。
その後は溝口秀勝に仕えたものの、兄・一豊の招聘に応じて山内家に帰参しその補佐に努めた。
関ヶ原の戦いで軍功をたてた兄の一豊が土佐藩主となると、一豊は先に康豊を先陣として土佐に入国させ、長宗我部の遺臣に帰服を求める書状を送られるなど領内の安定に努めさせました。
翌慶長6年(1601年)6月、康豊は西方の押さえとして土佐中村2万石を封ぜられました。
土佐2代藩主忠義をサポートする
慶長10年(1605年)に一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男・忠義が土佐2代藩主に就任します。
忠義は14歳と若年だったため、康豊は後見役を勤め政策や普請などで補佐します。
慶長期の土佐藩は、他藩とかわることなく駿府・江戸・名古屋城等の普請や大坂の陣等の過重な軍役を課されます。
些細な失態で改易になりかねない状態で、藩を存続させたのは康豊の力があったからでしょう。
永2年(1625年)8月29日高知屋敷にて死去。
享年77。
康豊の家督は次男・政豊が継いだ。
山内家18代当主・山内豊秋は、康豊は兄より優れた人物だったと評した。
信長の野望での山内康豊
ゲーム信長の野望での山内康豊のパラメーターを見てみましょう。
統率 59 (847 位)
武勇 53 (1189 位)
知略 62 (805 位)
内政 70 (361 位)
外政 67 (467 位)
合計 311 (547 位)
2200人中の順位です。
本能寺の変で逃げたことから武勇が平均より小さくなっているのでしょうか。
土佐入国後、長宗我部家の旧臣を帰服を求め、領内の安定化したことや、土佐2代藩主の忠義を補佐した点から内政が高くなっています。
まとめ
いかがでしたか?
土佐初代藩主の兄・山内一豊、そして土佐2代藩主の息子・忠義を支えた山内康豊。
現在の高知県民は長宗我部元親よりも町の発展に大きく貢献した山内一豊の方を尊敬していますが、その影には山内康豊がいたんですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。