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宗像正氏(むなかたまさうじ)とは?村上水軍を撃退した宗像水軍【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、大内氏の家臣である宗像正氏(むなかたまさうじ)です。黒川隆尚とも。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
宗像大社大宮司となる

宗像大社
宗像正氏は明応9年(1500年)、宗像氏佐の子として生まれます。
宗像氏は筑前国(福岡県)宗像地方を治める領主で、同地に勢力を持つ宗像神社の大宮司を代々務めていました。
永正5年(1508年)、宗像神社大宮司であった宗像正氏の従兄弟の宗像興氏が船岡山合戦で戦死したため宗像正氏が家督を継ぎ、76代大宮司となる。
tips!
大宮司とは伊勢神宮をはじめ熱田、宇佐、阿蘇、香椎、宗像、気比、香取、鹿島などの神宮・神社にあった神職の長。
周防の黒川郷を統治する
その後は周防の戦国大名である大内義興に仕え、尼子氏や大野氏との戦いに参戦しました。
大永7年(1527年)、弟の氏続を猶子として、大宮司の家督を譲ります。
大永8年(1528年)、大内義興の死後後を継いだ大内義隆に仕え、義隆から周防国吉敷郡黒川郷を与えられました。
そして偏諱(「隆」の1字)を与えられ、正氏は黒川隆尚と改名した。
大内氏一門に準じた扱いだったようです。
大内氏が宗像氏を家臣化した背景には、宗像氏が擁する水軍を取り込むためでした。
延文2年(1357年)頃に宗像水軍に海賊討伐の命令が出ているのでその頃から存在しており、天文10年(1541年)には宗像正氏は水軍を率いて厳島沖で村上水軍を破っています。

村上水軍を破るとは激つよです。
後に豊臣秀吉が島津氏を攻める際にも、宗像水軍が動員されています。
家督を譲っていた弟の氏続を除いて、再び家督に復帰している。
正氏には庶子として氏貞がいたが、死の直前の1547年に家督を甥で養子の氏男(黒川隆像)に譲り隠居し、同年のうちに死去した。
宗像氏男は正氏の一人娘・菊姫を正室とした。
信長の野望での宗像正氏
ゲーム信長の野望での宗像正氏のパラメーターを見てみましょう。
統率 71 (327 位)
武勇 63 (655 位)
知略 65 (643 位)
内政 57 (939 位)
外政 61 (734 位)
合計 317 (490 位)
2200人中の順位です。
最強の水軍部隊である村上水軍を破った宗像水軍を率いていた点から統率・武勇が高く設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
宗像大社大宮司を務め、大内家臣として数々の戦で活躍し、山口県の黒川郷を任された宗像正氏。
村上水軍を破るほどの力を持った宗像水軍を率いていました。
宗像正氏亡き後、山田事件という宗像一族での家督争いがあり、陶晴賢の策略により宗像正氏の勢力が消し去られてしまいました。
誠に残念です。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。