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三浦貞久(みうらさだひさ)とは?尼子軍の侵攻を何度も防衛した美作の豪族【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、美作の豪族である三浦貞久(みうらさだひさ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
三浦貞久の一生
三浦貞久は、美作国の国人領主である三浦貞国の子として生まれます。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1508年と設定されています。
美作三浦氏は、鎌倉幕府有力御家人三浦義澄の弟佐原義連の血筋で義連-横須賀時連 – 杉本宗明と続き、宗明の次男の三浦貞宗が14世紀初頭に高田城を築城したのが始まりとされているようです。
三浦貞久は、弟に大河原貞尚・三浦貞盛、子に三浦貞勝・貞広がいる。
天文7年(1532年)に父・貞国が死去したため家督を継ぐ。
天文4年(1535年)頃、出雲の尼子晴久は伯耆・稲葉を攻略し領土を広げ、天文13年(1544年)には美作に侵攻します。
尼子晴久配下の宇山久信は2000余騎で高田城を攻めるも、寡兵ながら貞久はよく城を守り、尼子軍を撃退します。
天文16年(1547年)にも尼子氏との戦いがあったが撃退しています。
しかし天文17年(1548年)に貞久が病死すると、晴久は三浦一族である大河原氏に養子入りしていた貞久の弟である大河原貞尚と縁戚関係を結び、三浦氏は尼子氏の支配下に置かれた。
信長の野望での三浦貞久
ゲーム信長の野望での三浦貞久のパラメーターを見てみましょう。
統率 53 (1169 位)
武勇 52 (1243 位)
知略 59 (973 位)
内政 67 (467 位)
外政 64 (595 位)
合計 295 (746 位)
2200人中の順位です。
尼子軍を何度も防いだものの、尼子晴久の本隊ではないのでそこまで武勇が高く設定されていません。
なぜか政治パラメーターが高くなっています。
まとめ
いかがでしたか?
美作の豪族である三浦貞久。
領土拡大の野心があった尼子晴久が目の上のたんこぶでかなりウザかったことでしょう。
居城の高田城が山城で旭川が天然の堀になっていたのである程度の防御力をほこり、尼子軍の侵攻を何度も防ぐものの、貞久の死後に尼子晴久の勢力下に入ってしまいました。
その後子の貞勝が高田城を奪還しているので流れを知るとより歴史を楽しめますね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。