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南方就正(みなかたなりまさ)とは?毛利元就から「就」の字をもらった勇将【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、毛利氏の家臣である南方就正(みなかたなりまさ)です。宮内少輔とも。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
南方就正の一生
南方就正は天文14年(1545年)、毛利氏の家臣である南方元次の次男として生まれます。
南方氏は、門司氏の系統で豊後国の大友氏や厳島神主家と同族でした。
延元元年(1337年)頃に安芸国山県郡南方の地頭となり名字を「南方」と称し、就正の父の元次の代で毛利興元に仕えたようです。
毛利元就から「就」の偏諱を与えられ、就正と名乗った。

優秀だったり可愛がっている家臣に偏諱を与えるので、毛利元就からそれなりに南方氏は重要視されていたのでしょう。
弘治2年(1556年)毛利軍が周防に侵攻すると大内軍の内藤隆世は右田ヶ岳城に城番を配置するも降伏します。
そしてこの右田岳城に南方就正が城代となり山口に入った。
弘治3年(1557年)、兄の就由に代わって南方氏の家督を相続します。

まだ12歳なので周りの家臣や身内のものが代わりに政治を行っていたことでしょう。
永禄5年(1562年)、石見国の松山城攻めの際に武功を挙げ、永禄12年(1569年)、毛利氏に滅ぼされた大内氏の残党である大内輝弘が大友宗麟
天正9年(1581年)には、織田氏の中国侵攻の際は備中国の忍山城に入り守備をしました。
慶長14年(1609年)4月23日に死去。
信長の野望での南方就正
ゲーム信長の野望での南方就正のパラメーターを見てみましょう。
統率 50 (1331 位)
武勇 51 (1302 位)
知略 56 (1150 位)
内政 46 (1527 位)
外政 50 (1324 位)
合計 253 (1434 位)
2200人中の順位です。
全体的に凡庸なパラメーターです。
目立った活躍がないので、致し方ないです。
まとめ
いかがでしたか?
記録には残っていませんが、朝鮮の役や関ヶ原の戦いなどにも毛利家臣として参戦していたことでしょう。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。