武将名鑑【信長の野望 新生】
本多忠勝(ほんだただかつ)
本多忠勝(ほんだただかつ)
本多忠勝 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
85 (58 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
98 (3 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
79 (172 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
60 (792 位) | ||||
合計 | 322 (64 位)2201人中 |
本多忠勝 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
幼名 | 鍋之助 | ||||
仮名・通称 | 平八郎 | ||||
渾名 | 三河の鹿 | ||||
法号・戒名 | 西岸寺殿前中書長誉良信大居士 | ||||
父 | 本多忠高 | ||||
母 | 小夜(植村氏義の娘) | ||||
配偶者・正室 | 於久の方(見星院・阿知和玄鉄の娘) | ||||
側室1 | 乙女の方(月量院・松下弥一の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1548年 | 徳川家臣。徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と評された家中随一の猛将。名槍・蜻蛉切を手に57度の合戦に参陣し、傷一つ負わなかったという。 | |||||||||
死亡年 | 1610年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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無傷の誇 | 敵部隊を撃破すると、一定時間兵力が減少しない | ||||||||||
城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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蜻蛉切 | 敵部隊の兵力減少 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 23 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 35 |
本多忠勝が登場する合戦
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田中城の戦い [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年2月20日 ~ 3月1日
静岡県藤枝市田中
織田信長の軍勢に呼応して、2月18日、徳川家康も遠江浜松城を出陣して武田勝頼の領国駿河に侵入する。
遠江小山城を自落させた家康は、大須賀康高・酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らを先鋒にして、武田勝頼の属城である駿河田中城を包囲した。田中城は堅固に備えを立てて落城の気配を見せなかった。
攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、田中城の依田信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続ける内に織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けて、ようやく3月1日に信濃の本領を安堵する条件で城を大久保忠世に引き渡した。
開城後、信蕃は家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。
-
鉢形城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年5月19日 ~ 14日
埼玉県大里郡寄居町鉢形
鉢形城 曲輪
5月19日、前田利家・利長父子、上杉景勝・真田昌幸の北国勢と、浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら徳川勢の連合軍は、3万5000余の軍勢で武蔵鉢形城を包囲する。
城主の北条氏邦は、小田原城で籠城している北条氏政の弟であった。
鉢形城は稀に見る頑強な要害であったため、1ヶ月近く籠城を続けたものの、抗戦の不利を悟って降伏開城する。
このとき自刃するため菩提寺正龍寺に入った氏邦は、利家によって一命を助けられ、のち利家とともに金沢に移った。
徳川家康の関東討入にともない、鉢形城は成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
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竹ヶ鼻城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月22日
岐阜県羽島市竹鼻町
杉浦重勝
梶川三十郎
花村半左衛門
毛利広盛
LOSE
木曾川
8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まると、東軍の福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16000の兵は木曾川下流から岐阜城に進軍することになった。
このとき岐阜城の織田秀信に呼応して西軍についていた竹ヶ鼻城主の杉浦重勝は、東軍を木曾川の起(おこし)の渡しで待ち受ける。
起の渡しでは、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らや秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って鉄砲隊を布陣していた。鉄砲隊がいることや、砂地のため馬で渡河するのが困難だったため、木曾川での対決を避けた東軍は、迂回して下流の加賀野から船や筏で渡河した。
22日午前8時、杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、渡河した東軍は9時に竹ヶ鼻城を急襲した。
福島正則の家臣らに負傷者が出たが、正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。
本丸に孤立した重勝はそれでも降伏勧告を拒絶し、残った手勢36名で抵抗を続けた。
正則の養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られ、午後4時には重勝自ら打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。生き残っていた重勝の家臣7名も自刃していたと伝わる。
こののち東軍は、岐阜城に向かう。
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