武将名鑑【信長の野望 新生】
真田昌幸(さなだまさゆき)
真田昌幸(さなだまさゆき)
真田昌幸 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
94 (11 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
80 (136 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
99 (2 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
85 (69 位) | ||||
合計 | 358 (13 位)2201人中 |
真田昌幸 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 武藤喜兵衛 | ||||
幼名 | 源五郎 | ||||
仮名・通称 | 喜兵衛 | ||||
法号・戒名 | 長谷寺殿一翁千雪大居士 一翁閑雪大居士 | ||||
父 | 真田幸隆 | ||||
養父 | 武藤三郎左衛門尉 | ||||
母 | 恭雲院(河原隆正の妹) | ||||
配偶者・正室 | 山手殿 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1547年 | 幸隆の三男。「表裏比興の者」と豊臣秀吉に評された稀代の謀将。関ヶ原へ行軍途中の徳川秀忠軍3万8千を数千の兵で翻弄し、秀忠軍を信濃に釘付けにした。 | |||||||||
死亡年 | 1611年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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表裏比興 | 敵部隊に混乱付与 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 24 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 36 |
真田昌幸が登場する合戦
-
加野川の戦い [天正壬午の乱]
1584年2月2日
長野県上田市
武田氏の遺臣である真田昌幸は、天正10年(1582年)9月より徳川家康に従い、同じ武田氏の遺臣である依田信蕃とともに家康の信濃平定に参加していた。
徳川氏と北条氏との和睦が成立すると、自立を図っていた昌幸は家康から離反する。
このため天正12年(1584年)2月、昌幸は家康の命を受けた依田信蕃の子の松平(依田)康国に攻められた。
松平勢と真田勢は信濃の加野川で戦い、真田勢200余が討ち取られた。 -
上田城の戦い [天正壬午の乱]
1585年8月2日
長野県上田市二の丸
上田城
-
松井田城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月28日 ~ 4月20日
群馬県安中市松井田町松井田・新堀
3月28日、前田利家・上杉景勝・真田昌幸・信幸父子の北国勢らが率いる豊臣勢3万5000余の大軍が上野松井田城を包囲する。
北条氏の重臣である大道寺政繁が守る松井田城は、信濃と上野の国境に位置する要衝である碓氷峠を扼していた。
政繁は勧告を拒絶して抗戦を続けたが、周囲にある北条方の国峰城や厩橋城が次々と落とされると、4月20日に政繁は人質として長男の直重を出して、降伏開城した。
松井田城の開城後、真田昌幸らの北国勢は上野国の要の城である箕輪城の攻略を進めた。
-
箕輪城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月24日
群馬県高崎市箕郷町西明屋
箕輪城
上野松井田城を落とした前田利家・上杉景勝・真田昌幸らは、西牧城・国峰城・厩橋城を落として大導寺政繁の案内で上野箕輪城に向かう。
このとき箕輪城を守っていたのは、武蔵鉢形城主・北条氏邦の家臣の垪和信濃守である。
氏邦は、豊臣勢の襲来を予期して箕輪城を改修補強させていたが、城兵は一戦も交えず、4月24日に降伏開城した。
こののち信濃高遠城主・保科正直が城の請け取りにあたり、前田利家に引き渡している。 -
鉢形城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年5月19日 ~ 14日
埼玉県大里郡寄居町鉢形
鉢形城 曲輪
5月19日、前田利家・利長父子、上杉景勝・真田昌幸の北国勢と、浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら徳川勢の連合軍は、3万5000余の軍勢で武蔵鉢形城を包囲する。
城主の北条氏邦は、小田原城で籠城している北条氏政の弟であった。
鉢形城は稀に見る頑強な要害であったため、1ヶ月近く籠城を続けたものの、抗戦の不利を悟って降伏開城する。
このとき自刃するため菩提寺正龍寺に入った氏邦は、利家によって一命を助けられ、のち利家とともに金沢に移った。
徳川家康の関東討入にともない、鉢形城は成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
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忍城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年6月5日 ~ 7月16日
埼玉県行田市本丸
忍城
-
八王子城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年6月22日 ~ 23日
東京都八王子市元八王子町
天正18年(1590)鉢形城を攻略した前田利家・上杉景勝・真田昌幸・信幸父子ら北国勢は、後北条氏の副都心ともいえる武蔵八王子城を包囲する。
八王子城主は北条氏政の弟である北条氏照で、城代の横地吉信のほか、狩野一庵・中山家範・近藤綱秀ら1000余で守っていた。
豊臣勢は翌6月23日に総攻撃を仕掛け、城代の吉信が城から脱出し城主・北条氏照を欠いたまま半日で落城した。
小田原城に対する見せしめのために徹底した攻城が指示され、敵味方の相交える鉄砲の音は雷のようだったという。
このとき氏照の正室をはじめとする女性たちは、滝に身を投げた。
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